思い出すままに〈11〉
●米軍の本格反攻がはじまる
―ミッドウェーとガダルカナルで敗北
のんきに山歩きをして、写真を撮ったりしていたが、戦局は開戦半年で早くも転換期を迎えていた。
東京が初空襲をうけた2ヶ月後の昭和17年6月5日、ミッドウェー沖で、日本海軍は大敗北を喫してしまった。日本は世界に誇る空母4隻が全滅(赤城、加賀、飛竜、蒼竜)、重巡1隻(三隈)、飛行機285機、将兵3,057人(内.飛行機搭乗員121人)を失った。熟練パイロットの喪失は、のちの作戦に大きな支障をもたらした。米軍は空母2隻の内の1隻だけ沈没(それも追跡した潜水艦によるもの)、戦死者は362人(内.搭乗員208人)。
米軍に対して圧倒的に優勢な日本軍が負けたのは、連戦連勝の“奢〔おご〕り”と、大兵力を頼む心が志気の弛みを生んでいたもので、まさに2万の今川軍が3千の織田軍に負けた“桶狭間の戦い”そのものだった。
(草鹿龍之介『運命のミッドウェイ』文芸春秋社/沢地久枝『記録ミッドウェー海戦』文芸春秋社1986年刊/豊田穣『ミッドウェー海戦』講談社)
ミッドウェーの敗戦は国民に厳重に秘されていたのに、不思議なことに、噂は当時私の耳にも入ってきた。しかし、大本営発表〔*〕を頭から信じ切っていた私は、そんなのはウソだ、デマだと取り合わなかった。
〔*:大本営6月10日発表は「米空母2隻撃沈、飛行機約120機撃墜、わが方の損害空母1隻喪失、1隻大破、巡洋艦1隻大破、未帰還機35機」とあり、相打ちの印象だった。〕
当時、短波ラジオは販売されておらず、聞くことは勿論、持っていることさえ、固く禁じられていた。中波ラジオも3球(真空管)までで、性能が悪く、放送局も日本放送協会(現在のNHK)ただ1局だった。これらが日本の真空管技術、ひいては通信技術、電波兵器(レーダー)の開発を遅らせてしまった、とも言える。
そしてその2ヶ月後の8月7日、米軍は南太平洋のソロモン諸島のガダルカナル島と、その隣のツラギ島に突如上陸してきた。
ガダルカナル島で日本は、米・豪の海路を遮断する目的で飛行場を建設していたが、それがやっと出来上がったところだった。日本は少数の守衛兵と設営隊で応戦したものの、飛行場は忽ち米軍の手に落ちた。日本の参謀本部は米軍の攻撃を軽くみて、三次にわたって逐次兵力を送ったが(最も拙劣な作戦といわれる)、制空権を握った米軍の前に、いずれも失敗。半年に及ぶ死闘の末、遂に翌18年2月、退却を開始した。10,652人が救出されたものの、20,748人が戦死した。内約7割は病気と飢えによるもので、ガ島が『餓島』と呼ばれた所以である。大本営は、この退却を[転進]と発表した。(手塚柾緒編『ガダルカナルの戦い』草思社、1995/『昭和2万日の全記録』第6卷、講談社)
●『カラマーゾフの兄弟』を読む
今考えると、昭和17年は重大な年だったのだが、私はこの夏休みにドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に取り組んだ。上中下の3冊で、何れも500頁を超す分厚い本だ。これを何とか読み通そうと頑張った。
大きなドカ弁(土方が使う弁当箱)を作ってもらい、昼に半分食べ、夕方に残りを食べて、史料編纂所に残って読んだ。
登場人物の名前が、ミドルネームがあるためやたらに長く、3通りで出てくるのでややこしい。名前をメモ書きにして、それを見ながら、とうとう読み通した。しかし、内容はさっぱり覚えていない。大して面白くなかったせいだろう。ただ目標を達成した満足感は残った(同じ、ドフトエフスキーの『罪と罰』は中編だが面白かった)。
長編小説といえば、戦後間もなく読んだ『風と共に去りぬ』(上中下)は実に面白く、夢中で読んだ。
当時、やたらに本を読んだ。『宮本武蔵』(吉川英治)や『姿三四郎』(富田常雄)もそうだが、夏目漱石の小説を殆ど読んだ。坊ちゃん、草枕、吾輩は猫である、にはじまって、三四郎、虞美人草、こころ、門、それから、行人、明暗、彼岸過ぎまで、など。中でも『こころ』には感動したのを覚えている。
ここで武者小路実篤の『愛と死』を読んだことを思い出した。この本にまつわる話を書く。
クラスメイトに新潟県の寺泊から出てきた山田啓一郎君がいた。彼は神田の小さな出版社に勤めていて、そこで寝泊まりしていた。彼が『愛と死』を安く売ってくれると言うので、ある日曜日の朝、神田まで行った。ようやく探し当てたが表は閉まっている。裏口へ回り戸を叩くと彼がはだけた寝巻姿で現れた。そして本を渡してくれた。
それから46年後の平成元年(1989)、クラス会で彼のことが話題になった。ところが誰も消息を知らない。そこで私は彼が寺泊の出身であることを思い出し、思い切って寺泊町長に手紙を出してみた(事情を説明し、返信用の封筒を入れて)。すると間もなく、同市の総務課員の大塚文雄氏からご親切な返事と戸籍謄本の写しが送られてきた。それにより山田君は昭和54年、東京都中野区で死んでいたこと、しかも奥さんはその前の昭和50年に亡くなっていたことがわかった。意外な悲報に唖然とした。
横道にそれたついでに書くと、山田君は田舎丸出しの純真で明るい男で、空転(空中転回)が得意だった。教室のうしろの狭い場所で、パッと飛んで見せ、得意になっていた。
実は、私も倒立が好きで、一時は凝っていた。昼休みになると、皆が倒立をやっているので、一緒にやったわけだが、あたまがすっきりし、気分転換になる。そのうちに2分位立てるようになり、更に5メートル位歩けるようにもなった。
それで教室で、やってみせたものだから、真似する者が出てきた。山田君もその1人で、彼は器用だったから空転までマスターしてしまったのだ言わば彼の空転の源は私にある、と言うわけだが、今度は私が彼に刺激されて空転が何とかできるようになった。
●少年兵志願を両親にとめられる
米軍がガ島上陸以来、ソロモン海域が日米両軍の主戦場になった。両軍ともあるだけの力をふりしぼって戦い、戦いは悲惨をきわめた。米軍上陸後の第一次ソロモン海戦(昭和17年8月8日)から、日本海軍の最後の勝利となったルンガ沖夜戦(11月30日)まで、ガ島争奪をめぐって戦われた主な海戦と海空戦は8回、小さな衝突まで入れれば100回に近い。
まさに生産と補給の戦いであり、気力の衝突だった。日本側は艦艇24隻(戦艦2隻含む)、航空機900機、そのパイロット2,000人以上を失った(戦死者は2万人超で82頁の通り)。
戦いの決着をつけたのは飛行機だった。日本軍にとって不幸なことは、第一線の基地ラバウルからガ島まで1,000キロ、零〔ゼロ〕戦の航続距離いっぱいのこの長い距離の中間に、一つの中継基地もないことだった。制空権は結局のところ、ガ島に飛行場を持つ米軍の獲得するところとなった。そして制空権のないところに制海権もなく、ガ島への補給が困難になった。(『決定版
昭和史』第10卷:毎日新聞社、1983年刊)
日本は飛行機と、その搭乗員の不足が目立ってきて、その補充に躍起になった。海軍は予科練(海軍飛行予科練習生)、陸軍は少年飛行兵を大々的に募集した。ともに高小修了程度の学力をもつ満15〜17歳の少年を2〜3年訓練して前線に送り出した。
昭和17年の秋の日曜日、学校から声がかかって後楽園球場に集合した。『燃ゆる大空の夕べ』とか言う集まりだった。『燃ゆる大空』は当時封切られた東宝映画で、少年飛行兵の活躍を描いた戦意高揚映画である。
球場の入口前に陸軍の最新鋭戦闘機《隼〔はやぶさ〕》が置かれ(模型だったかも)、「進め一億火の玉だ」「一億一心」とか「鬼畜米英」とかの標語の立て看板。
観覧席は我々のような若い生徒で超満員。実はここに入ったのは初めてで、広いのに驚いた(後に高射砲陣地になった)。
映画はやらなかったと思うが、ピッチャープレートあたりにしつらえた演壇で、えらそうな軍人が次々に立って時局の重大さを訴え、少年よ、今こそ来たれ陸軍少年兵へ、とアジ演説をした。
そして軍楽隊の伴奏で『燃ゆる大空』の主題歌を一説ずつ区切って全員に歌わせ指導した。
♪燃ゆる大空 気流だ雲だ/あがるぞ翔〔かけ〕るぞ疾風〔はやて〕の如く
爆音正しく高度を持して/輝く翼よ光華〔ひかり〕と勢〔きそ〕え
航空にっぽん 空征くわれら (佐藤惣之助作詞、山田耕筰作曲)
テンポのいいこの歌を忽ち全員が覚えてしまっった(今でも歌える)。
すっかり洗脳された私は、帰宅するや否や、両親に少年兵に志願したいと言った。
驚いたのは両親で、父はお前は長男だから中川家を継ぐ責任がある、軍隊に行かなくてもお国へ奉公の道はあると説き、母も泣いて引き止めた。
私も興奮がさめてきた。よく考えると、元々運動神経はいい方でなく、身体検査では心臓肥大と言われている身だ。とうとう折れて志願はあきらめた。その代わり上級学校へ行かせてもらえることになった。
海軍の予科練は、昭和17年11月1日から制服をそれまでの水兵服から七つボタンの短ジャケットに変えた。『七つボタン』は東宝映画『決戦の大空へ』の主題歌『若鷲の歌』が一世を風靡〔び〕して、少年のあこがれの的になった。
♪若い血潮の予科練の/七つボタンは桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ/でかい希望の雲が湧く
●進学をめざす
少年飛行兵志願をやめる代わりに、上級学校へ行くことを両親に承知させた私は早速準備にかかった。
当時、実業学校(工業学校と商業学校)から大学、専門学校などへの進学は制限されていた。成績がクラスの1割以内の者だけに受験資格が与えられた。実業学校の生徒は卒業したらすぐ就職しろ、というわけだ。
従って専門科目をそっちのけにして、受験勉強をするわけにいかず、普通中学生よりハンデを背負っていた。それでなくても普通科目の授業時間は少ないのだから尚更である。
この頃だったと思う。学校へ行く市電の中で、知らないおじさんから話しかけられた。
当時は、老若男女を問わず、胸にタテ10センチ、ヨコ7センチ位の白布
の認識票を縫いつけていた。そこに名前、住所、年齢。血液型が書いてある。男子学生は脚にゲートルを巻き、戦時スタイルである。学生は電車やバスの中で座ってはいけない不文律があった。わが校ではズボンのポケットに手を入れることを禁じ、ポケットを縫いつけた。
そのおじさんは酒が入っていたかも知れない。「君は小石川工業生か。昼間働いて、夜勉強するとはえらい」という。そこまではよかったが、「君は利口そうな顔をしているから機械科か、電気科か」ときく。「いえ、建築科です」と答えると、そのおじさんは「それはいかん」とからんできた。私はムキになって建築も時局には必要だと抗弁したが、電車が学校前にきてしまった。
このささいな出来事が頭の隅にいつまでも残った。
さて上級学校といっても何処を受けたらよいか、と考えた。わが家の状況から?自宅から通学できること(下宿代はとても出せない)、?大学は予科を入れて6年と長いからダメ、?官(国)公立(授業料が安い)――という3条件で、『蛍雪時代』(旺文社発行の受験雑誌)で調べた。
すると、海軍兵学校、海軍経理学校、海軍機関学校などの軍関係を別にしても、授業料不要の官立学校があった。しかも月20円頂けるのだ。逓信官吏養成所(現在の郵政省)、灯台守、船員、水産講習所、図書館員、教員養成機関などである。ただし、5年間は指定された場所で働かねばならない義務がある。とはいえ、志願者が多くかなりの難関である。
私は色々考え、悩んだ末、次の2つを選んだ。
A、逓信〔ていしん〕官吏養成所(現在の電気通信大学)
B、東京高等師範学校(のち、教育大学、現在の筑波大学)の選科(別科と言ったかも知れない)、「数学コース」
A、は芝浦、B、は大塚にあるので通学できる。
本命の官立高等工業が、どういうわけか東京になかった(松戸に東京高等工芸学校はあった)。近いところで横浜、山梨(甲府)、多賀(日立)で、遠くは仙台、名古屋である。何れも教員養成コースがあり、教育法(?)が多いだけで、授業内容は全く同じで、本科学生と同じクラスで勉強する。授業料なし、月20円支給される(義務期間5年あるが)。
横浜高工(現在の横浜国立大学)が手近で魅力だったが、王子から弘明寺〔ぐみょうじ〕まで2時間以上かかり、しんどい。
そんな時、昭和18年4月、府立航空高等工業(荒川区)、同化学高等工業(江東区)、同機械高等工業(小金井)の3校がいっぺんに開校された。何れも工業学校に併立されたものだった。
官立の80円(年間)に較べて、120円(同)と授業料は高いものの私立大学の数分の一である。私はこのニュースに喜び、時代の花形であり、わが家から一番近い航空高等工業を第一目標に選んだ。(市電で会ったおじさんの話に影響された面もあった)
受験科目を調べると、数学、物理、化学、英語、国語、日本史、作文が共通していた。高等工業の場合は[英語または国語]となっていて、どちらになるか前年秋に文部省から発表される。
どの課目をとっても、夜間の実業校生にとっては、実力不足ははっきりしている(英語は勿論だが、国語も、文法など習ったことがない)。しかし、あと1年3ヶ月ある。とにかく頑張ってみようと決意した。
●ゆり子の作文
孫のゆり子(小学四)が、先生から作文に『(原田選手のように)がんばっている人』という題を出され、私のことを書いてくれた。うれしいことだ。ここでその作文を紹介したい。
| 私のおじいちゃん 宮坂
ゆり子
何か一つのことをがんばってやっている人は、私のおじいちゃんです。おじいちゃんは今、自分の生まれた時からのことを文章にしています。 それはおじいちゃんが元気なうちに、自分が生まれた時からのことや、昔の生活(とくに戦争中)のことなどを、家族や親せきに残すためだそうです。 ファックスでげんこうが家にくると、お母さんがそれをパソコンでうって、プリントして親せきに送っています。今ちょうど70ページにもなりました。(最後は何ページになるのやら……)私は、まだ、むずかしくてよくわかりませんが、いつか読めるようになりたいです。 私は、おじいちゃんが、すごいな、えらいな、と思います。私はそんなおじいちゃんが大好きです。 (先生の評:「宮坂さんが作文好きなのは、おじいちゃんゆずりかもしれないね」) |
ゆり子の作文に興味をもった先生から是非読んでみたいと言われ、『思い出すままに』の綴りを貸したという。先生は小石川工業学校の近くに住んでいたことがあり、懐かしがっていたそうである。
●受験勉強にかかる
上級学校へ進学を志した私は、月刊雑誌『蛍雪時代』に載っていた受験体験記から、参考書を選び、これを18年12月までの1年間を4期に区切って勉強することにした(昭和19年1月から試験日までは総仕上げとする)。
そして次の誓いを立てた。
1、睡眠は6時間以内とする(毎日、深夜1時までは勉強する)。
2、映画は見ない。
3、小説類は読まない。ラジオ・新聞も最小限にする。
当時テレビはないので、映画は最大の娯楽だった。これをガマンすることは、かなり辛いことだった。
私に幸いしたことがある。それは苦手な英語が試験科目から外されそうなことだった。すでに一昨年(昭和15年)から、英語は陸軍予科士官学校、同経理学校、同幼年学校の入試から廃止されていた。
昭和17年7月8日の文部省通達で、英語は高等女学校の必須科目から外され、週3時間の随意科目になった。「英語などに苦しまず、女性はまず“よき母に”」という方針で、重点科目を家事(育児保健)、理科、実業においた。
そして世間では、外国語追放運動がさかんになって、煙草のゴールデンバットが『金鵄』に、チェリーが『桜』に変わり、ラジオのニュースが『報道』に、アナウンサーが『放送員』になったりしていた。
更に、ジャズなど米英楽曲約1,000曲(ダイナ、私の青空など)の演奏(レコードを含む)が、昭和18年1月禁止された。歌手のディック・ミネは三根耕一と改名した。
これらのことから、専門学校の入試科目『英語または国語』は『国語』になるだろうと判断し、英語の勉強は程々にした(事実そうなったのだが、入学してから英語に苦しめられるハメになった)。
●軍人勅諭
あの『燃ゆる大空の夕べ』のあと、蜂巣教官(叩き上げの準尉)が、軍事教練の時間に「お前らは、ほかのことは仲々覚えんのに、歌はすぐ覚えるナ」と皮肉った。
日頃教官からよく見られていない私は、それならと長い長い『軍人勅諭』〔*〕の暗記に取り組んだ。軍隊に入ると覚えさせられ、苦労すると言われ、どうせ覚えさせられるのなら、今のうちにと言うわけだった。
このことで、蜂巣教官からほめられたが、クラスで流行になり、後に続く者が出た。
〔*〕軍人勅諭:明治15年1月4日に発布された「陸海軍軍人ニ賜リタル勅諭」で、2,700字に及ぶ長文で、早口で唱えても10分はかかった(本文を図書館で探したが、なかった)。
要約すると、前文において軍隊の天皇直率を明確にし(この項目が昭和に入ってから[統帥権]として独り歩きして、政治の妨げになった)、本文において軍人の錬磨すべき徳目を示し、後文においてこれを誠心をもって貫くべきことを諭したもので、陸海軍軍人の精神の柱になった。
一般には、次の5カ条がよく知られている。
1、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。
1、軍人は礼儀を正しくすべし。
1、軍人は武勇を尚〔とうと〕ぶべし。
1、軍人は信義を重んずべし。
1、軍人は質素を旨とすべし。
●小石川工業4年生(最終学年)になる
長い人生の中で、最も苦しかった受験時代が始まったわけだが、その中にも色々の出来事があり、思い出して書いてみよう。
受験勉強一点張りで、学校の成績が下がってしまっては、受験資格がなくなるから、専門科目もしっかり勉強しなければならない。
学期試験が近づくと、2週間前から日割りを決め、準備にかかった。
試験(4〜5日)が終わった日は銭湯へ行く。夜も遅いので、湯は汚れているが、客は少なく、湯船の中で、「終わった!」と大声で叫びたい開放された気分になった。ところが、ある晩開放感の気のゆるみと、疲れから湯船の中で眠り込み沈んでしまった。そばの人に助けられたが、風呂の中で溺れるところだった。
試験が終わった数日後、担任の小笠原先生に呼ばれ、秘かに成績一覧表の集計をやらされた。先生は私がソロバンがうまいことを知ってからだった。私が級長で、いつも一番だったせいもある。
私は地下の誰もいない部屋で、縦横の合計を計算する。それで自分がまた一番だと知り安心した。(私の合計点は12科目でいつも1,000点を超し平均点は91点か92点だった。二番は1,000点に届かず100点以上の開きがあった)
自分の成績がわかると、次に鈴木寿治君の成績を確かめた。彼には試験が近づくと、ヤマを教えたものの心配だった。2年の学期末も、3年の学期末も彼は40番前後でビリから3〜4番前だった。ビリでなくヤレヤレと安心する。ところが、彼の次の者は落第で、ヒヤッとした(この学校は平気で落第させる。だから毎年上から落ちてくる者がいる)。
いまは亡き鈴木君の名誉のために言っておくが、彼は頭が悪いのでなく、勉強する時間がなかったのだ。卒業して国鉄(現在のJR)に就職し、大卒者でもむずかしい一級建築士の試験に合格していることで証明できる。
小笠原先生は3年間担任されたが、目をかけてもらった。こんなことがあった。ある夜、先生は私に「カケヤを買いに行くからついて来い」と言う。私はカケヤが何だかわからない。聞くのは恥ずかしいと思い、黙ってついて行った。カケヤは木槌(木ハンマー)の親分みたいなものだった。赤穂浪士が吉良邸に討ち入った時、雨戸などを叩き破るのに使ったあの道具だった。私はカケヤを肩にかついで先生のうしろから学校まで帰った。
昭和18年4月、最終学年の4年になり、担任は建築科長の藤村先生に代わった。新入生の入学式の日、私は在校生を代表して、全校生徒、先生、父兄の前で歓迎の辞を朗読した。
その前の3月、学芸会があり、われわれのクラスで演劇を出した。シナリオらしきものを私と文学好きの荒井弘君が書き、2人で演出し、私自身も夜学生を叱る巡査のコミカルなチョイ役で出演した。大道具などは、大工さんの卵がいてお手の物だった。
クラスの歌を作詞し、一同に口伝えで教えて歌わせたりした。曲は北大寮歌(都ぞ弥生の雲紫に)を使った。このことはすっかり忘れていたが、数年前のクラス会の時、川又栄治君が歌った。「なに、それ?」ときいたところ「中川君が作った歌じぁないか」といわれて思い出した。
『北大寮歌』はハーモニカの本で覚えた歌だった。王子高小の頃だったか、ハーモニカを習い、数字の楽譜で『庭の千草』『コロラドの月』『箱根山』などと一緒に独習で覚えた。
●通信試験、日土講習会、研数学館
(昭和18年)4月頃から、旺文社の数学通信試験に入った。毎月問題が送られてきて、回答を返送する。すると、赤インクで添削されて戻されてくる。1回1円だったと思う。4問出題されるが、どれもむずかしくなかなか解けない。毎日、寝てもさめても、歩いていても問題が頭から離れない。回答期限ギリギリまで考えて、やっと答案を書いて送った。成績(点数)は始め低かったが、次第に上がってきた。
夏頃から神田一ツ橋(神保町の交差点のウラで現在は小学館か、集英社になっている)の『日土講習会』(数学)に入った。こっちも1回1円で10回分払った。日曜日に試験があり、次の日曜日に問題の解説がある。
木造二階の古い建物で、ドタドタと幅の広い階段を上ると、かなり広い教室がある。机は受講生が退屈まぎれに彫った文字で凸凹だらけのひどいものだったが、黒板は自慢するだけあって立派だった。先ず大きさ、横幅は教室いっぱいの10メートル位あり、次は質でチョークがきれいに乗ることだった。そして書いた数字が、黒板ふきでさっと消えた(学校の黒板のように、ごしごしこする必要なし)。
講師は藤森良夫さんと田島一郎さん。2人とも若々しい新進気鋭の数学者で、先生というより兄貴という感じだった。良夫さんは、日土講習会の創立者で[考え方]総帥の藤森良蔵先生の息子さんだった。良蔵先生は[考え方]というシリーズの参考書を何冊も書いている有名な人だが、すでに引退していた。開講式に出席され挨拶されたので、謦咳に接することができた。
田島さんは東大数学科を卒業したばかりだった。お二人とも話がうまく実に面白かった(田島さんは戦後、ラジオの深夜番組の受験講座の講師を永く担当された)。
教室には200人以上もつめかけ満員だった。両先生とも“チョークの粉を吸う場所にいなけりゃダメだ”とよく言っていたので、私は早めに行って、前の方に座った。
一問について、何通りかの解法が紹介され、答案の書き方(字配り、全体の配列)まで、こまかく教えられる。入試は学校と違って、落とすのが目的だから、と言う。
『三角法』など、目からうろこが落ちる思いがした(学校の先生もこういう風に教えてくれたらなァ、とつくづく思った)。
[考え方]には、独特な面白い言い方がある。例えば垂直二等分線のことを『平重盛』という。その心は忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず〓あちらが立てば、こちらが立たず、といった具合だ。
得点の順番から、50番までの名前と志望校が毎回廊下に貼り出される。私の名前も時々出るようになった。
夏休みに、水道橋の『研数学館』に通った。ここでは夜間の英語コースに入った。英語の勉強もしておく必要があったからだ。
講師が汗かきで、毎回Yシャツの背中まで、汗びっしょりで、肌にくっついていたのを覚えている。
●山本五十六長官の戦死
――忍びよる敗戦の陰
昭和18年5月21日、大本営は連合艦隊司令長官山本五十六〔いそろく〕大将の戦死を発表した。この報道に、私は頭から冷水をかけられた思いがし、戦局の前途に一抹の不安を抱いた。
山本長官(59歳)は、前線視察のためラバウルに到着、将兵たちを激励した。その後4月18日空路ソロモン群島バラレ島へ巡視に向かう途中のブーゲンビル島上空で、米陸軍P38戦闘機16機に襲われ、撃墜されて戦死したものだった。米軍機は巡視計画の暗号電報を解読し、待ち伏せていたのだった(米軍により、暗号が解読されていたことで、ミッドウェーでも敗北をまねいたが、日本軍はまだそのことに気がついていなかった)。
軍は山本長官の戦死を1ヶ月以上もかくしていたが、6月5日国葬が行われた。国民的英雄で[無敵連合艦隊]の象徴ともいえる山本長官の死は、戦争の行方に暗い陰を投げかけ、国民を暗澹とさせた。
悲報は北からもやってきた。18年5月アリューシャン島のアッツ島へ米軍1万7千人が上陸してきた。守備隊2,600人は山崎保代大佐以下文字通り最後の一兵まで戦い全滅した。
悲惨だったのは、ニューギニア派遣部隊だった。昭和18年6月、米軍と闘ったラエ、サラモア地区の第18軍団所属の3個師団は、補給を絶たれて飢えと熱帯性マラリアに悩まされ、1個中隊が40〜50名に減り、ガ島を思わせる戦況になった。
もはやこれまでと玉砕を決めた中野中将以下ラエの第51師団は、転進命令をうけて、富士山より高いサラワケット山脈を越え、北岸キャリへ撤退したが、この途中夏服での寒さと飢えと疲労のために8,650人中2,200人が倒れ、生き残った兵士も半病人に等しい状態だった。その後第18軍団全体は米、濠軍に追いつめられて、ジャングルの中に孤立し、昭和20年9月13日降伏したときは、かつて14万人をかぞえた大軍がわずか1万3千人にすぎなかった。
一方ヨーロッパ戦線では、ドイツ軍は2月、スターリングラードでソ連軍に敗退。7月北アフリカ戦線で連合軍に降伏し、日本軍と同じような戦局の転換期を迎えていた。そして9月8日、イタリアのバドリオ政権は連合軍に無条件降伏した。日独伊三国同盟の一郭が崩れたわけだが、日本政府は「戦争の大勢に影響するものに非ず」との声明を発表した。
遠い南太平洋やアリューシャンで死闘が繰り返されていたものの、日本内地はまだ?平和?だった。
●軍事教練
夜学なのに、時々日曜日に朝から軍事教練に駆り出された。1、2年では徒手教練だったが、3年になると小銃を持った教練になる。銃は三八式歩兵銃〔*1〕で、もっと古い村田銃〔*2〕というのも学校の兵器庫に並んでいた。
〔*1〕三八式歩兵銃──明治38年(1905)に設計されたので、この名がついた。弾倉には5発はいり、銃剣はながく、刀剣型だった。北支に3年いて終戦(1945)を迎えた囲碁仲間の長老(80)にきいてみたら、終戦の時まで三八式だったという。すると40年間も使われたことになる。日本では1,000万丁も作られ、ヨーロッパの小国で三八式を真似た銃もあったというから名機には違いなかったが、米軍の連発銃に較べて時代遅れの感は否めない。
〔*2〕村田銃──明治維新後、新政府に陸軍を作った村田蔵六が考案したといわれる。三八式に較べるとぐっと重かった。
学校外では、戸山が原で何度か教練をしたが、昭和16年5月2年生の時に高尾山、小仏峠へ行った時の小さな密着写真が残っている。数人が林間に集まり、立って笑っているが、私は小隊長のしるしの二本線の入った腕章をつけている。
日帰りの教練にはリュックやカバンでなく背負い袋が校則だった。黒い布地を筒状に縫ったもので、弁当(にぎり飯)を入れて右肩から左脇に斜めに背負う。古めかしい格好だった。
昭和17年3年生の時に南軽井沢(2泊)、昭和18年4年生の時には那珂湊(3泊)へ行った。小銃を持ち、ゲートル巻きで見た目は厳しいが、4年生にもなると要領もよく、教官ともつながりができていて、うるさいことは言われない。半分遠足か旅行気分だった。
南軽井沢では兵舎のような簡易宿泊所に泊まったが、那珂湊(茨城県)では町の有力者と思われる広い家に泊めたもらった。夏のことなので、ふとんは殆どいらなかった。
教練の合間に那珂川の河口の海岸で、漁師の地引き網を手伝った。綱を引っ張っては行けない、綱をつかんだまま、陸(おか)の方に歩くように言われた。
網が狭まり、マルタと呼んだ50〜70センチの大物の魚がはね上がって勇壮だった。
漁師は生まれたままの姿で、褌〔ふんどし〕もパンツもつけず、局所の先端を1本のワラで縛っているのがおかしかった。
体が陽にやけ、夜は痛くて、寝返りが出来なかったのを思い出す。
●実弾射撃
4年のいつ頃だったか忘れたが、実弾射撃の訓練があった。生涯で只一度の経験である。
場所は都電(昭和18年7月1日から市電が都電になった)が春日町(文京区)から次の伝通院(大塚方面)へ向かう富坂を登り切った左奥だったと思う。最近『断腸亭日乗』(永井荷風)の昭和19年9月21日の項に「秋風漫歩によし。小石川牛天神付近の地理を知る必要あり、三時頃家を出て赴きたり。砲兵工廠の構内むかしとは全くちがひたれば……」(以下略)とあり、荷風自身の手になる地図が描かれているのを見つけた。射撃場は「旧砲兵工廠」だったとわかった。
現在は何になっているのか地図で調べたら「戦没者霊園」になっているらしい。
カマボコ状の屋根の長い建物で、標的までの距離は200m、実弾2発が各人に渡された。銃は例の三八式小銃だ。
引き金を人差し指だけで引いてはいけない。5本の指でげんこつを作るように絞るのだと注意された。
私の順番がきた。1発目、的に標準を合わそうとするが、銃口が上下に浮動して定まらない。その内に目がかすんできた。落ちつけ、落ちつくんだと自分に言い聞かせて、静かに指を絞った。ダーンという音と同時に肩に衝撃。結果はいかにと、標的を見たら、見事命中のサインが出た。ホッとしたせいか、2発目は集中力が切れて、外れた。
このあと、監的壕〔かんてきごう〕に入って弾痕を調べる役目をおおせつかった。ここは標的の真下にある地下壕で、標的はフスマ1枚ほどの大きさで、真ん中から上下に区切られていて、上下にそれぞれ同心円の白黒の模様が描かれている。真ん中を軸にグルっと回る仕掛けになっている。つまり上半分は上に出ているが下半分は地下にもぐっている。
実弾が発射されると監的手は、上下をひっくり返して弾痕を調べる。当たっていれば棒の先に円板のついたものを当たった箇所に指し上げ(外れていれば、円板を左右に振る)、弾痕を紙片でふさぐ。そして射撃O.Kの合図を出す。それを2人でやる。勿論安全な場所なのだが、風洞のような建物なので、ビューン、バシッという音が頭に響き、スリルがあった。
『少年H』(妹尾河童・講談社刊1997)によると、少年H(昭和5年生まれで庄三と同年)は、昭和19年に私と全く同じ監的手をしている。そして、まだ中学2年生なのに実弾5発も撃っている。名門の神戸二中だったからか。
少年Hは教官の田森中尉からいじめられているが、私は蜂巣教官からいい感じは持たれていなかったものの、いじめられたことはなかった。私の弾丸が命中した時、蜂巣教官が意外な顔をしたのを今でも覚えている。
●テレビ試験放送を見る
そして、この頃だったと思うが、上野の不忍池のほとりで(現在、第二動物園か水上動物園になっているところ)、生まれて初めてテレビ放送(試験)を見た。『科学博覧会』だったと思う。大勢の見物人に混じって、人混みの中でやっと見たのだが、14”ぐらいの黄色い画面にスキーをしている姿がぼやけて映っていた。現在のテレビから見ると玩具のようなものだったが、皆感心して見ていた。
上野といえば、毎年9月1日にクラスメイト数人と美術館へ行った。この日は院展と二科展の初日で無料になるのだった。建築家は美術感覚を養わなくてはいけないと言われたからだった。
●体力検定
昭和15年9月、国民体力法が制定され、体力章検定制度が実施された。
100m走、2,000m走、走幅跳、手榴弾投げ、土俵運搬、懸垂屈肘(鉄棒)の種目を科して体力を上級、中級、初級に仕分ける。手榴弾投げは、手榴弾に擬したものを掌でつかんで投げるのだが、重いので腕の肘〔ひじ〕を曲げないで投げる。35m〜39.99mで初級である。土俵かつぎは土を詰めた俵(初級40?、中級50?、上級60?)をかついで50mを15秒以内で走らなければならない。
4年生(昭和18年)の時と思うが、わが校でもある日曜日に小石川区営運動場で体力検定が行われた。私が基準を突破できるのは懸垂だけだった。これは倒立をやっていたお陰か、上級の12回を楽々に超えられた。
テニスのうまい男がいた。やせていて、見た所非力の男だったが、手榴弾投げは上級の45mを軽々と超すのにびっくりした。テニスのお陰だろう。
採点は同級生がやっていたが、私には適当に記録を書いてくれ、中級バッジをもらった。級長の私の顔を立ててくれたのである。
●学徒出陣
政府は、昭和18年6月25日、学生の勤労奉仕を法制化し、兵器廠、軍需工場、農村への動員令を発した。さらに、7月末日をもって高等学校の年限を短縮した。
戦前から学生には?徴兵猶予?の特典が認められていたが、戦局の悪化でこの制度は9月22日(昭和18年)をもって理工科系を除いて撤廃された。いよいよ『学徒出陣』である。
10月21日、文部省と学校報国会の共催による『学徒出陣壮行会』が明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)で行われた。
関東77校、7万人の出陣学徒が、冷たい雨の降りしきる中、制服制帽にゲートル、剣つき銃のいでたちで東条英機首相、岡部長景文相らの閲兵をうけた。泥水をものともせず行進する学徒の姿は国民に感動と悲壮感を与えた(このシーンは、現在もときどきテレビで放映されている)。
そして12月(陸軍は1日、海軍は10日)、全国の大学高専の法文科系在学生は推定13万人が学業半ばのまま戦列に加わっていった。
多くの前途有望で優秀な学生が死地に赴き『きけわだつみの声』の悲劇を生んだ。
●病魔に襲われる
戦局の悪化とともに、物資が不足して物価が高騰、生活を圧迫してきた。
そんな中で受験勉強に打ち込んでいた私に、思いがけない病魔が襲ってきた。
夏頃だったか。よく寝汗をかくようになった。結核の不安が頭を横切った。当時結核は最も恐ろしい国民病で、現在の〈がん〉に相当するものだった。
心配した私は、意を決して『結核予防協会』の門を叩いた。協会は水道橋の研数学館の前にあり、毎日大勢の人が出入りしているのを知っていた。
ある日の早朝、まだ扉が開いていない時間に並んで順番を待った(1日20人位しか受け付けなかった)。
レントゲンなどの診断を受け、後日結果をききに行くと、医師は「何でここへきたのか」ときく。私が理由を言うと「君は全く心配ありません。今迄通り勉強を続けなさい」と言ってくれた。実にうれしい言葉で、お陰で数日間悩んでいた頭のモヤモヤが晴れた(以来55年経つが、結核予防協会に感謝の意をこめて、少しだが毎年複十字シールを買って協力している)。
●盲腸をこじらせる
一難去ってまた一難、今度は本物の病魔が襲ってきた。11月の初めの頃、お腹をこわし学校を3日程休んだ。よくなったので登校したが、都電を降りる時、右下腹に僅かな痛みを感じる。1週間くらい経った頃、手でそこを押すと痛みがはっきりし、さすがにおかしいと思った。
医者へ行くと、盲腸で、しかも化膿しているらしいと言う。どういう縁か覚えていないが『板橋外科病院』で手術をうけた。この手術は痛かった。メスが入り、切り下げられると「イタッ!」と悲鳴を上げた。執刀医に「そんなに力を入れたら切れないよ」と文句を言われたが、僅か5センチを切られるのに脂汗をかいた。戦時中のことで充分に麻酔薬を使わなかったせいだろう。
盲腸は化膿が進み、あと数日遅れたら破裂して生命が危なかったろうと言われた(横綱玉錦が四国の連絡船の中で盲腸を弟子に揉ませて死んだばかりだった)。
病名は盲腸(虫様突起炎)でなく〈穿孔性腹膜炎〉だった。化膿しているので縫合できず、キズ口は開けたままにされた。切り口から中にガーゼをつめ、肉の上がるのを待つという。
病室は3畳か4畳半の和室で個室だった。お腹を鉄棒を組み合わせたカマボコ型の防護ワクで覆い、ふとんの重みがかからないようにしている。看護婦が、毎日腹につめたガーゼをピンセットでつまみ出し、真鍮の膿盆にのせる。ガーゼはうみで黄色になっている。あとからあとからまるで手品師のようにガーゼを引っぱり出し、膿盆に山のようになる。そして新しい白いガーゼをあとからあとから詰め込む。
お腹の中はうみでいっぱいだから横になれず、一日中真上を向いていなければならない。手術直後の10日位は母が泊まり込みで付き添い看病してくれた。
母は私のために、父も弟も商売も何もかも放り出して、もう夢中だった。
「私の生命を差し上げますから平三を助けて下さい」と神社に祈った、と後日聞き、母親のありがたさが身にしみた。
そんな母がある時、驚いた顔をして私に言った。「今、廊下で看護婦さんが何かを洗っているので、ひょいとのぞいたらそれが人間の足だったのよ。」交通事故でかつぎ込まれた人の足だったらしい。私は毎日ガーゼを詰め替えてくれる若い看護婦さんに姉さんのような思いを抱いていたのだが、そんな肝のすわった度胸があったとは職業柄とはいえ感心した。
麻酔がきいている間は口から臭い匂いが出、2・3日経って麻酔が切れるとキズ口が痛い。横向きになれず、只天井をながめ、家に残してきたミーコ(猫)に早く会いたいと思った。
ミーコは子猫から飼い、一緒にふとんで寝たりした仲だ。わたしが和机の前であぐらをかいて勉強していると、必ずあぐらの中にすっぽり入ってくる。寝るのに丁度いいらしい。
痛みがとれると、勉強の遅れが気になり、母に参考書を持ってきてもらった(母も時々家に帰るようになった)。『英語または国語』の受験科目は『国語』と発表された。予想通りになり安心した。寝ていては数学の計算はできないので、専ら国語や物理、化学の暗記ものに取り組んだ。
ガーゼの数が次第に減り、肉が上がり、キズ口が小さくなってきたが、笑うことができない。笑うとキズ口に痛みが走るからだが、これは辛かった。
クラスメイトの浅見弘君が見舞いに来てくれ、鶏卵10個をもってきてくれた。彼の家は養鶏業だったが、鶏卵は当時貴重品〔*〕で実にありがたかった(その彼が卒業後間もなく、結核で亡くなったのは実に残念だ。今でも顔を思い出せる)。
〔*〕《食物の闇値》白米1升10円、酢1合1円、食パン1斤2円40銭、鶏肉一羽25円、鶏卵1個70銭、砂糖1貫目120円、するめ1枚1円、沢庵1本5円、醤油1升10円、バター1斤20円(永井荷風:断腸亭日乗、昭和19年4月11日)
●繰り上げ卒業
実業学校も3ヶ月の繰り上げ(短縮)卒業になり、私も12月下旬に小石川工業を卒業になった。しかし入院中の私は期末(卒業)試験にも卒業式にも出られなかった(入学以来の一番が途切れてしまった)。卒業直前に予科練に入隊した成沢忠夫君の壮行会にも出られなかった(彼は幸いにも無事復員し、現在もクラス会で顔を合わせている)。
年も押し詰まった12月30日、無理に頼んで退院させてもらい、懐かしいわが家に帰った。42日間の入院生活だった。2階に上がり、ミーコ、ミーコと呼んだが、ミーコは長い尻っぽを立てニャーオと泣いただけで寄ってこなかった。手術のキズ跡はケロイド状にひきつって、醜く今も残っている。
入院中の11月24日、南太平洋ギルバート諸島のマキン島の日本守備隊が玉砕、25日その隣のタラワ島の守備隊も玉砕した(両島で5,400余人)。
タラワ島は日本の委任統治領で、いわば飛行場を載せた要塞だった。米軍は1週間の猛烈な砲撃ののち16,000人が上陸、死闘が展開され、米軍の死傷者も3,300人を超えた。
●つらかった真冬の勉強
お正月(昭和19年)をわが家で迎えたいと、無理に退院させてもらったものの、つかまり歩きをする状態だった。
学校は繰り上げ卒業になり、史料編纂所も辞めて、遅れた受験勉強一本に打ち込み背水の陣をしいた。
物資不足がひどくなり、食料は勿論だが、文房具類も手に入りにくくなっていた。『ぜいたくは敵だ』『欲しがりません勝までは』という標語が昭和15年頃作られて、世に宣伝されたが、ぜいたくしたくても、欲しがってもモノがなくなっていた。モノがなくなる、とはどんなものか。勿論頭で想像できても、実際に体験した者でないとわからないだろう。現在スーパーなどで食料やモノがあふれているのを見ると夢のようだ。
そんな時、父が顔をきかせて藁半紙(下級紙)を1連(500枚)手に入れてくれた。これはありがたかった。数学の計算を鉛筆でやり、余白がなくなると、その上に今度は青インクで計算した。ボールペンはまだなく、万年筆は高価なので買えず、インク壷からつけペンで書き、500枚全部(両面を2度、つまり2,000頁分)使った。
体は次第にしっかりしてきて、どうやら歩けるようになったが、つらかったのは冬の寒さだった(今でも寒がり屋でこれは体質的なものだろう)。深夜火の気の全くない所で、母が作ってくれた湯たんぽを抱えているものの、寒さが身に沁みてくる。かい巻きを頭からかぶって、かじかんだ両手に息を吐きかけ、耳たぶを擦って寒さと眠気と戦った。
『大寒や、夜しんしんと幾何〔きか〕解けず』は当時の句だ。幾何は代数のように数字をいじくり回しても解けるものでなく?ひらめき?で解けるものだ。いくら考えてもひらめかず、情けなくなる。
●幻に終わった淡き初恋
そんな日が続くある日、勉強に疲れた身体を伸ばすために立ち上がった窓越しに、鞄を下げ、やや伏し目がちにこちらに向かって歩いてくる制服の女学生の姿が目に映った。その楚々とした姿に思わず見とれてしまった。女学生は間もなく目の前を通り過ぎて消えた。
それから毎日、午後4時になると立ち上がってガラス越しに背伸びしてその女学生を待った。彼女は毎日ほぼ同じ時刻に姿を現した。私は胸をときめかせてその姿を凝視した。
僅か1分ぐらいであったが疲れた頭を癒し、慰めてくれた。
当時は男女共学でなく、女学生と話す機会は全くなかった(姉妹もいなかったし)。彼女とは話しどころかどこの誰だか名前も知らず、いや顔さえさだかでなかった。18歳の幻の片想いだった。
●いよいよ受験
色々迷った末、前に書いたように?都立航空高等工業(航空発動機科)、?東京高等師範、教員養成所(数学科)(戦後、教育大から、現在の筑波大学となる)、?逓信官吏養成所(現在の国立電気通信大学)の三校を受けることにした。
実業学校からの受験には学校長の推薦状が必要だった。推薦状はクラスの1割(私の場合は3人)だけである。
2学期の試験を受けていない私に推薦状を出してくれるのか心配だった。
まだ歩き回れない私に代わって母が担任の藤村先生(建築科長)に、父がどこかで顔をきかせて手に入れたウイスキーを持参して頼みに行ってくれた。担任とは言え、夏休みを除くと正味半年足らずの浅い付き合いだったが、先生は母の願いをきいてくれ、1学期の成績(首席)で推薦状を出してくれた。ありがたかった。
前回、府立化学高等工業、航空高等工業、機械高等工業の3校が昭和18年同時に開校したと書いたが、これは間違いで、化学が昭和17年、航空が18年、機械が19年に開校されたとわかった。
3校とも昭和18年7月府立から都立に、昭和19年高等工業から工業専門学校と改称された。
最初に逓信官吏養成所(テイカン)を受けた。月謝不要で、その上1ヶ月20円支給される。卒業(3年)すれば判任官として逓信省(現在の郵政省)に就職できるものの、勤務場所はどこになるかわからない。しかし志願者が殺到して競争率はかなり高かった。試験場は三田あたりだった、と思うが『英語』があり、さんざんだった。わからない単語だらけで、仕方なく和訳は英単語のまま書いた。
勿論不合格だったが、1年の『速成コース』なら入れる、という通知がきた。
次は大塚にあった東京高師だった。ここも月謝不要で、月20円支給される。ただし、卒業後5年間は指定された学校へ行かなくてはならない。
ここの試験は変わっていて痛快だった。『数学科コース』だけあって、1日目に数学の第1回試験があり、翌日行くと合格者の番号が掲示されている。合格者だけが2日目(数学の2回目、国語、ほか)の試験を受けられた。3日目は国語、そのほか(科目は忘れた)があった。すべて合格したが、最後に体力検定があった。これには参った。何しろ手術のキズがやっとふさがり、歩けるようになったものの、まだ走ったことがない。そのことを試験官に言えばいいのに私は黙って(覚悟して)、鉄棒にぶら下がり(懸垂)、俵をかついで走った。幸い腹のキズが裂けることもなく無事通過した。
後日、合格の通知がきた。
都立航空高工の試験は最後だった。ここが目標だったので、願書は受付の初日、それも朝早く南千住の学校へ持って行った。受験番号は航空発動機科の7番だった。
現在も親交のある中村定浩君(安田工業、1浪)は800番台だったという。村上匡寛君(法政一中、1浪)は109番で、解くと読めよろこんだという、航空発動機科と、航空機科があり、共に定員40名で、競争率はそれぞれ20倍強、30倍強になった。何しろ時代の花形で、?徴兵猶予?の特典がある公立校だから無理もない。しかもかなりあとでわかったことだが、併立の航空工業学校から8人も入っていた。この8人は事実上無試験だったらしい。従って実質的に競争率は航空発動機科でも30倍近かった。
今年3月6日、級友森島恭二君の三回忌に集まった14人に受験科目をきいたところ、はっきり覚えているものはいなかった。中には〈英語〉があった、と言う者さえいた。60年も経てば仕方ないか。
試験は2日間で、数学、物理、化学、国語、日本史、作文、口頭試問(面接)だった、ことに落ち着いた。
作文の題は『空』だったと3人が言うので、間違いなさそうだ(私は全く覚えていない)。
●数学で失敗したが合格となる
いよいよ試験当日になったが、得意の数学で大失敗した。
4問出題中の1問が出来なかったのである。3問は難なく解けたが、1題だけがどうしてもわからず、たっぷりあった時間が次第になくなり、焦ってきた。脂汗が流れた。ベルが鳴り、書きかけの答案を出したものの、絶望感に打ちのめされ、がっくり肩を落として教室を出た。
他の科目は全部出来、自信があったが、肝心の数学に失敗しているので、虚しい気持ちだった。
ところが、あきらめの気持ちで合格発表を見に行ったら、何と合格していた。実にうれしかった。あとでわかったが、この数学の問題を解けた者は1人だけだったという。それ程の難問だったのだ。
近所に息子さんを航空工業に通わせて、それを自慢にしていた床屋さんがあった(事実、航空工業も東京では有名な激戦校だった)。床屋さんは父に航空高工はとてもむずかしいからね、と嫌味を言っていたというが、父は早速せがれが合格したと鼻高々に報告に行った。父の喜ぶ姿にいい親孝行ができたと、とうれしかった。
授業料不要の東京高師に未練はあったものの、戦局を考えると教師になる気になれず、それにインフレの昂進で年120円の授業料は安いものだった(卒業まで値上げされなかった。小石川工業の月謝は2円50銭だった)。両親も金は心配するな、と言ってくれ、入学手続きをした。
同じクラスから推薦をうけた松丸正義君は横浜高工(建築科、教員コース)、小倉伝治君は仙台高工(建築科)に合格し、3人とも目的を果たした。
●航空高工に入学
昭和19年4月、都立航空高等工業学校(まもなく都立航空工業専門学校と改称)の2期生として入学した。
同級生になった40人中の3分の2は浪人で、中には都立五中卒で4浪の猛者がいて驚かされた。私も1年遠回りしているので1浪のようなものだった。現役組の中に4修(旧制中学4年修了)の者も2〜3人いて、これまた驚きだった。現在一緒に同期会の幹事をしている小林輝夫君(都立三中、現両国高校)も4修だが、途中病気で2年間遅れている(現在、都立航空高専名誉教授)。もっと驚いたのは学校に行かず、専検(専門学校受験資格検定試験)で合格した男が只1人いたことだった。中島武二君である。これは努力家だ。
専検は中学の科目すべてに合格しなければならないからだ(書道や、体操まであるという)。
入学式が終わったその日、新入生は校庭に横二列に並ばされ、2メートル位の間隔で向かい合った。配属将校の横沢大尉の指示で、お互いに「気ヲツケ」「回レ右」「休メ」などと号令をかけ合った。
私と向かい合ったのが野田健二君(明石中学卒)だった。全員服装はバラバラだったが、彼はヘンな帽子(慶應帽)をかぶっていて、見るからに育ちの良いお坊っちゃん然としていた。関西弁だったが、すぐ仲良くなった。地方からは青森の神昭一君もいた。
学校の一隅にはプール、体育館、機械工場と飛行機の格納庫があり、中に練習機らしい飛行機が2機と自動車が数台置いてあった。
それらを見学し、立派な設備と環境に、入学できた喜びがあらためて湧いてきた。
●富士の裾野で合宿教練
入学して僅か数日後の、昭和19年4月8日から14日までの1週間、富士の裾野の板妻の横山軍教廠舎に連れて行かれた。
引率者は佐藤政次生徒主事(ゴリ政とあだ名がつけられたが、後に文学博士となった)と、工藤教官(少尉?)だった。この記録は畏友中村定浩〔さだあき〕君(当時は貞明)の当時のメモによる。メモは古いノートに挟んであったという。
背の順で私は第2班になった。各班に軽機(軽機関銃)が1台渡されたが、幸いそれに当たらず、例の三八式小銃だった(まだ手術後の体力に自信がなかった)。軽機に当たったのは中島武二君(例の専検卒)で、今でもこぼしている。軽機は2人で担当するのに、もう1人は弾薬函を持ち、最後まで交代してくれなかった、という。その男、竹内竹治郎(通称ダブル竹)は要領のいい奴だったが、卒業後消息不明である。
同じ第2班に前述の中村君(安田工業、1浪)、永田伝三郎君(麻布中、1浪)、浮田健一君(都立五中夜間部、1浪)がいた。
朝から夕方まで、小銃をかついで教練をやらされ、夜は座学があった。すぐお互いの名前や出身校や性格を覚え親しくなった。
単調なスケジュールに、2、3日経つとホームシックになった。
昨年なくなった森島恭二君(航空工業、現役)は、上り框〔かまち〕の陰にごはん粒をつけ、食事が終わると一粒づつ取っていた。ごはん粒が減ってゆくのを皆が楽しみに見ていた。
漸く帰る日がきた。兵舎の前に整列した時、リュックにネギやキャベツ手には大根などを下げてきた者がいた。わが班の浮田健一君だった。彼は都立五中夜間部を卒業後、小学校の代用教員を1年していた、家庭思いの苦労人だった(夜間部卒は彼と私の2人だけだった)。
彼とは卒業後、中村、根津君(開成中現役)と五月会というグループを作って長く交際した(五月会のことは、あとで触れる)。
とにかく、この日の彼の行動は60年経った今でも語り草になっている。
●建物の強制疎開に動員される
合宿教練が終わり、やっと授業が始まったが、案の定英語の実力差を思い知らされ悪戦苦闘した。教科書はエドガー.ア.ランポーの原書だった。
先生は林信行教授で、のち米文学の権威として都立大学名誉教授となり、今年亡くなられた。先生はどういうわけか、私を指したことはなく、恥をかかされずに済んだ。今でも感謝している。
ドイツ語があり、これは私同様皆はじめてらしく、気楽だった。
そして[材料力学]などの専門科目は工業学校出の私には戸惑うことがなかった。
しかし、戦局は日増しに悪化の一途をたどり、のんびり勉強している余裕を与えてくれなかった。5月に入ると、建物の強制疎開による取り壊し作業に駆り出された。最初の勤労動員だった。
昭和19年1月26日、内務省は東京都に初の建物疎開命令を出し、都市密集の建物を強制的に除去する方針を打ち出したものの、未だ空襲必至の逼迫感がなく、遅々として進んでいなかった。
昭和19年2月17日、『日本の真珠湾』と米軍が呼んだ作戦上の最重要拠点トラック諸島が徹底的な空襲をうけて壊滅状態になった。日本軍の被害は航空機325、艦艇10、船舶32、兵員約700と共に、陸上基地の燃料タンク、倉庫など施設物資の多くを失った。戦史上かつてない莫大数量であった。米軍は真珠湾の仇を討ったと気勢をあげた。
2月23日にはマリアナ諸島までが米の機動部隊の空襲下に入った。
このような情勢から、当局は本土空襲は必至とみて、防火用の道路(空き地)をつくるための強制疎開を急がせた。
東京都の場合、1月から5月にかけ、第1次指定から第4次指定まで合計55,000戸(58,500世帯)が、7月末までを期限とする建物疎開命令をうけた。大工、鳶などの本職のほか隣組、町会などから延べ625,000人が動員された。力士なども加わったが、学生が過半の384,000人を占めていた。〔『昭和2万日の全記録』第6卷、講談社〕
われわれが動員されたのは、荒川区の三河島か日暮里あたりだった(よく覚えていない)。屋根に太いロープを数本かけ、運動会の綱引きのように大勢でエイ!エイ!と声をかけて引っ張る。すると家がバリバリと音を立てぺちゃんこにつぶれ、もうもうたる土煙が上がる。乱暴なやり方で、次々と倒していった。
この作業は無報酬だったが、昼になると握り飯が出た。近くの小学校で顔や手足を洗い、校庭に座り込んで待っていると、女性教師がおにぎりと沢庵を運んでくれた。そろそろ食料がなくなってきた頃で、これはありがたかった。女先生が美人だったので、冷やかしたりもした。
家の強制疎開は、わが家の近くでも行われた。現在、王子生協病院前の道路がそれだ。この道路はなかったが、強制疎開でできた。もっと広かったのだが、戦後になってひと側を住宅に戻して狭くしてしまった。ケチなことをしたものだ。
疎開の計画に当たった家は、有無を言わさず僅かな補償金で立ち退かなければならない。
渋谷駅前にあった甘栗太郎、東京パン、明治製菓、東宝映画館が壊されて駅前広場が出来た。〔『昭和2万日の全記録』第6卷〕
永井荷風の『断腸亭日乗』に建物疎開のことが出てくる。
「昭和18年12月31日、疎開トイフ新語流行ス、民家取払ノコトナリ。
昭和19年3月24日、浅草に行き、オペラ館楽屋を訪(と)ふ。公園六区の興行場も十箇所ほど取払となるべき由聞きたればなり。
同年4月10日、食料品の欠乏日を追うて甚しくなる……。市中到処〔いたるところ〕疎開空襲必至の張り紙をみる。」
現在成田空港の拡張予定地に30年も立ち退かない農家がいるが、考えられないことである。
●防空訓練
建物の強制疎開により[本土空襲]が、かけ声でなく身近に感じられるようになって、町内で防空訓練が盛んに行われた。
男性は国民服に戦闘帽、その上に鉄兜〔かぶと〕までかぶって、脚にはゲートルを巻いた。組(班)長はメガホンを持って号令をかけた。
女性はモンペをはき、綿入れの三角形の防空頭巾をかぶる。ものものしいいでたちである。
路上に焼夷弾に見立てたものを置き、それに水に浸したかます叺〔かます〕をかぶせたり、火叩き(*)で軒先の火を消す。あるいは屋根までハシゴをかけ、バケツリレーの消火練習をさせた。各戸に防火用水、防火砂を用意させた。
〔*〕火叩き…2メートルぐらいの棒の先端に、長さ40〜50センチの荒縄5、6本をハタキのように結びつけたもの。
これらの服装と道具は、今年3月オープンした九段下の『昭和館』に展示されている。私ら夫婦は早速4月に見学し、感慨を語り合った。
本当に米軍の空襲を受けた後でわかったことだが、これらの訓練道具は実に幼稚でバカバカしく、全くの役立たずだったことだ。当局の上層部は焼夷弾は1発づつ落ちてくるものと考えていたようだ。ところがとんでもない。10発位がまとまって落ちてきた。というのは、焼夷弾をまとめたケース(パン篭と呼ばれた)を頭上近くで飛散させたからだ。1軒に4、5発が庭、軒先、家の中に落ち、それを消している余裕はなく、逃げるのに精一杯だった。焼夷弾に直撃されて死んだ人もいた。
道路に垂直に突き刺さっている焼夷弾を見たことがある。六角形の柱状で、厚さ3ミリもありそうな丈夫な鋼板でできていた。これを延ばしシャベルを作った人がいた。
中川平三は今でもこの長い長いエッセイを書き続けています。
この第14回まで、打ち込みを娘、つまり私の母にやってもらっていましたが
ワープロを購入し、今はすべて自分の手でエッセイを書いています。
そして今もワープロと説明書を使ってエッセイをかいていることでしょう。
ワープロのため、パソコンにデータを持ってくることが出来ないため
インターネットで公開できないのがとても残念ですが
いつかは打ち直す覚悟で公開したいと思っています。
いままで読んでくださってありがとうございました。
掲示板でも問い合わせフォームでも結構です。一言でもいいので感想いただければと思います。
おじいちゃんも、喜ぶと思います。