おもいだすままに
第6回〜第10回


思い出すままに〈6〉

 
●高等小学校へ
 昭和13年4月、王子高等小学校(現在の王子中学)へ入学した。初めて長ズボンを履いて通学したが、大人になったような気分でうれしかった。当時の学制は小学校(6年)の上に中学校(5年)と高等小学校(2年)があった。何れも義務教育ではない。
 王子高小はへは通称だるま電車の土手下の小道を行き、北本通りを超して行く。子供の足で15分足らずだった(現在も同じ場所にある)。
 だるま電車は三つの陸軍工廠をつなぐ荷物専用の電気機関車で、うしろに貨車4、5輌をつないで走っていた。車軸が少なく、左右でなく前後に揺れるのが面白い。この土手は戦後崩されて、王子警察署前の道路になった。北本通りをまたいでいたのが『尾長橋』で、戦後外されたのに、都電(王子〜赤羽)の停留所名で暫く残っていた。川も橋もないのに『尾長橋』とはヘンだったが、都電の廃止と共に名前も消えたようだ。
 

●いきなり副級長に
 クラスは1、2年とも12組あり(各年、男女各6組)、全校生徒は
1,500人近くいた。仲良しの古沢孝君とは別のクラスになった。
 入学すると、いきなり先生から副級長に指名された。担任は転任してきたばかりの関谷仁先生だったが、次第にウマが合わないイヤな先生だとわかってきた。
 2学期からは選挙で級長に選ばれ、以後2年の2学期まで連続4期級長をした。
 

●双葉山の全盛期
 当時は相撲が盛んで、男子生徒は全員マワシを締めて相撲体操をさせられた(マワシは母が帯芯で作ってくれた)。
 相撲の先生は、あだ名でライオン先生。体格がよく色が黒く、髪が、ライオンの鬣〔たてがみ〕のようにうしろでウェーブしていた。風貌といいまさにライオンそっくりだった。
 ライオン先生は、本職は図画で、顔に似合わず優しく、小生には目をかけてくれた。
 こんなことがあった。クラス一同で荒川土手の写生に行き水彩画を描いた。小生の絵をほめてくれたが、もう一度描いてきなさいと欠点を指摘してくれた。今度は一人で行き、もう一度描いた。自分ではいいと思わなかったが、王子区(現在の北区)の展覧会に出品してくれ《金賞》になった。
 当時は横綱双葉山定次の全盛期だった。昭和11年春場所7日目から、昭和14年春場所4日目(1月15日)、安芸〔あき〕ノ海に負けるまで69連勝の偉業を達成した。当時は1年2場所で、13日制だったから3年間も無敗だった。しかも彼は絶対に待ったをしない。打倒双葉山に燃える新鋭力士が、時間前に奇襲攻撃で突っかけても必ず受けて立って勝った。この連戦連勝ぶりが、支那事変における日本軍の連戦連勝と結びついての人気沸騰だった。
 双葉山が安芸ノ海に負けた時は、号外が出る騒ぎだった。テレビのない時代で、ラジオにかじりついて興奮した。
 双葉山は、実は右眼が失明同然だった。安芸ノ海は双葉山の右足をねらって金星を射止めたのだ。しかし、その安芸ノ海は横綱まで昇進したものの、その後の8戦で双葉山に1勝もできなかった。
 双葉山は昭和7年春場所に入幕しているが、同時に入幕した8人の中に旭川(祥夫君の父上)がいる。旭川は双葉山と同門(立浪部屋)で、昭和16年春場所では三役の『小結』になっている(高永武敏著『相撲昭和史』恒文社、1982刊による)。
 両国の国技館には学校から引率されて2度行った(最上階の席だった)。
 

●関脇 旭川関について
 ここで、旭川幸吉(本名.宮坂幸吉)さんについて祥夫君(旭川関の三男)から資料を頂いたので、わかったことを書いておきたい。
 前項で昭和16年に小結になったと書いたが、その前に三役になっていることがわかった。即ち昭和11年夏場所で小結、昭和12年夏場所で関脇、昭和16年春場所で小結と合わせて3場所で三役を張っている。更に双葉山とは同時入幕ではあるが、双葉山は弟弟子に当たるらしい。

 「双葉山黄金時代の土俵に、変化の激しい相撲ぶりで、さっそうたる上手出し投げの切れ味を見せ、長く魅了したのが旭川幸吉である。武蔵山、男女〔みな〕ノ川、安芸ノ海などを宙に舞わした人気力士は、いまなお老角通の語り草になっている」

「体もないし、色白であまり陽の下でけいこをしないのじぁないかと思わせるのに、土俵ではしんらつな奇手をもちいて働いていた」

 「小柄だが勝ち気で、土俵上の態度も人をくったところがあり、引退後は幡瀬川と並んで一言居士のうるさ型だったから、性格も野放図なのかと思うと、非常に律儀な人だった。昔の武士気質を持った力士といえよう」

 「5尺8寸(176センチ)、22貫(83キロ)の細身ながら、均整のとれた動きのよい体躯は、つねにキビキビした取り口をみせて鉄傘下をわかせていた。立合いいきなり肩透かし、首投げ、三所攻めと変幻きわまりない働きに、NHKラジオの名アナウンサーも、そのスピードに実況放送がついていけず、よく泣かされたものだ」(以上、相撲雑誌から)

 断片的に話を紹介したが、大凡その人となりが浮かび上がってくる。
 更に意外なことがわかった。旭川関の父宮坂亀次郎さんは富山県下新川郡魚津町の住人で、明治40年頃、次男幸吉(3歳)とその兄を連れて北海道・旭川に渡っていることだ。つまり幸吉は旭川の生まれでなく富山県だった。
 魚津は、蜃気楼で有名な町だが、私の母アキの出生地上市町とは目と鼻の近さだった。不思議な縁を感じる。
 大正10年、幸吉数え年17の時、巡業にきたこれまた富山県出身の立浪親方に懇望されて入門した。

 昭和7年春場所で入門し、昭和17年夏場所を最後に38歳で引退した。
「引退後、検査役監事理事を歴任し、31年からは協会監事の要職におさまり、協会運営に尽力する一方、部屋にあっては現立浪(羽黒山)のよきアシスタントとして、沈滞気味の一門の再建につとめている」
 「年寄仲間では、“記録魔”と仇名されたくらい相撲に関するあらゆる記録のデータをつくるのが道楽で…」
 とあり引退後も相撲界のために働いたことを知る。そして囲碁好き、記録魔ということから、緻密な頭脳の持ち主だったことが想像できる。

 私は宮坂幸吉さんの法事に2度招ばれている。日記で調べたら、7回忌の昭和59(1984)年1月29日と、13回忌の平成2(1990)年1月28日だった。
 両方とも文京区根津の長久院で法要と墓参のあと、同区白山の『五右衛門』でご馳走になった。ここは豆腐料理で有名な料亭である。
 私は立浪親方(元関脇.安念山)と親方のお母さん(元横綱.羽黒山夫人)の前に座らされ、文字通り膝を交えて飲んだが、親方の飲みっぷりに目を見張り、さすがお相撲さんだと感心(?)した。
 私は相撲界のことには全くうとかったが、この時関取と呼ばれるのは十両以上の実績のある人を言い、関取とそうでない人との差は天と地程の差があることを実感した。関取でない人は、下座にいて親方とは言葉も盃も交わせない状態だった。まるで社長と平社員のようだった。
 旭川関とは生前お会いしたことはなかったが、子供の頃に名前は知っていた。私の親友で、今は亡き根津君は旭川をはっきり覚えていて、好感をもって印象を話してくれていた。

(この項のみ 平成10年9月1日 記)


●浅草へ
 軍需景気で近所に町工場もでき、わが家の店の客も増えて余裕ができたらしい。美人のお姐さん(今でいうホステス)を雇ったせいもある(この人には色々事情があったらしい)。
 月1回位の割合で、一家4人で浅草へ行くようになった。明治通りまで出て、手を上げると流しの空車(当時は円タクと言った)が次々に止まる。「浅草まで80銭」と言うと、気に入らない車は去り、次の車が来る。何台目かでO.K.となり、4人で乗り込む(70銭の時もあった)。浅草六区で、いつも常盤座に入った。『笑いの王国』という関時男一座の喜劇だった。この一座に田谷力三という看板歌手がいて“ボッカチオ”などを歌うのだが、ヘンな声で、これをきくと身震いした(この歌手は、戦後も息長く歌っていた)。
 常盤座を出ると、『須田町食堂』へ寄った。須田町食堂は東京のあちこちの盛り場にある大きな大衆食堂で、安い(本店は神田須田町)。テーブル一ぱいに料理をとり、勘定になると、なかなか計算できない。父は得意になって私に「平三、計算しろ」と言う。私が暗算でスラスラ計算すると、満足そうな顔をしていた。
 だが、わが家に帰ると両親は今日いくら使った、と小声で計算している。これが嫌だった(だいたい10円くらいだった)。
 

●エノケンを見る
 昭和14年のお正月と思うが、わが家の裏手に住んでいた角田〔つのだ〕さんの次男に浅草へ連れて行かれ、浅草松竹座で『エノケン一座』を見せてもらった。
 『どんぐり頓兵衛』だったと記憶するが実に面白かった。当時エノケン
(榎本健一)は、古川緑波〔ろっぱ〕と共に喜劇界を二分する人気者だった。映画にも出ていて『エノケンの猿飛左助』『エノケンの西遊記』『エノケンの法界坊』などは子供らに大人気だった。エノケンの映画を見てきた者が、皆に面白おかしく喋り、映画を見ていない者は肩身が狭かった。
 それが映画でなく、本物を見てきたのだから、得意や思い知るべしだ。得々と身振り手振りで友達に披露した。
 ただ、角田のお兄さんから口止めされたので、バカ正直に両親に言わなかった。大分後になって両親に知れ、黙っていたことを叱られた。
 角田家には3人の息子さんがいたが、3人とも戦死してしまった。
実に気の毒な一家だった。
 

●〔樽〕事件で級長をやめる
  朝礼の時、交代で各先生が壇に立って全校生徒に訓話をするが、担任の関谷先生の話はいつも的外れでピンとこなかった。担任なのでハラハラしながらきいた(級長は列の先頭に並んでいた)。頭の前が薄くなりかけていたから40代後半だったろうか。
 こんなことがあった。何かの記念日の日(当時、陸軍記念日とか、海軍記念日とか、時の記念日とか、乃木将軍の日とか祝日にならない記念日がいくつかあった)授業が終わってから教室でその記念日にちなんだ簡単な催し物をする。私が級長になってから最初の記念日に、関谷先生は私に「準備しておくように」と言って職員室に引き上げた。私には「準備」の意味がわからなかった。時間になり、先生が来ていきなり「準備ができていないじゃないか!!」と大声でクラス全員の前で私を叱った。先生の言う「準備」とは、黒板に〈式次第〉を書いておくことだった。それならそれと指示してくれればいいものを、これではまるで吉良上野介だ。慌てて、その日の予定を黒板に書いた。

 そして遂に日頃の憤懣が爆発する時がきた。国語のテストで【樽】という字にフリガナをつける問題が出た。私は当然【タル】と書いたが、これは間違いで正解は【ナラ】だという。実は【樽】という字はまだ習ってなく【楢】のつもりで出題したものが、先生のミスで【樽】と書いてしまったことは明白だった。【タル】と書いた者も何人かいたが、関谷先生はあくまで【ナラ】だと言い張った。
 私は頑として納得せず、級長をやめると宣言した。副級長の祓川〔はらいかわ〕君も同調してやめた。後任には関谷先生の覚えめでたい佐藤君が指名された。
 今、考えると、この問題をどうして校長まで言わなかったのか、と思う。残念ながらこちらはそれ程のワルではなかったということだ。しかし、黒を白と押し通した教育者にあるまじきこの教師は、たった2年で転校して去った。担任したのはわれわれのクラスだけだが、その後の一生をどう過ごしたろうか。
 

●卒業を前に進路を変える
 高小在学中の2年間(昭和13年4月〜15年3月)、双葉山に熱を上げている間に、日本と世界は大きく変わっていた。昭和12年7月に始まった日中戦争は中支から南支にまで戦線が拡大して泥沼化していたし、昭和14年9月1日、突如ドイツはポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まった。その前の昭和14年5月、満ソ国境(満州は現在の中国東北部、ソ連は現在のロシア)で『ノモンハン事件』が起き、日本軍はソ連軍に大敗した(敗戦の事実は国民にかくされた)。
 戦争の長期化で物資(ことに食料)が次第に不足し、昭和14年8月末から米が配給制になった。昭和16年4月の時点で11歳〜60歳の米の配給量は1日330グラム(2.3合)であった。その後、1日2.1合になり、その上遅配、欠配が当たり前になった(遠藤一夫『おやじの昭和』ダイヤモンド社)
【注】永井荷風は、『断腸亭日乗』の昭和15年8月1日に、「正午、銀座食堂で食事、南京米に馬鈴薯をまぜた飯を出す。此の日街頭には、ぜいたくは敵だと書きし立て札を出し、愛国婦人連、辻々に立ちて通行人に触書をわたす噂ありたれば、其の有様を見んと用事を兼ねて家を出てしなり」と書いている(岩波文庫)

 卒業が近づいた頃、関谷先生から進路をきかれて就職と答えた。すると日産化学・王子工場(現在の豊島5丁目団地)をすすめられて承知した。
 家から近いし、工場内に青年学校(夜学の社内教育機関)もあるというので。そんな時、めったに来たことがない梶原の佐野東吾さんがわが家に現れた(佐野さんのことは18頁に書いた)。東吾さんは私立大学の夜間部に通っていた。私の就職の話を聞くと“平ちゃんは、出来るのだから進学すべきだ、夜学でもいい”と両親を説得してくれた。
 学校のことは何も知らない両親もその気になり、東吾さんに任せることにした。結局地理的に近い市立小石川工業学校(現在、都立小石川工業高校)がいいだろう、という。当時、昼間働き、夜勉強する青年のために市立の工業高校と商業学校が数校あった。これらは高小卒を対象にした4年制の夜間専門の甲種実業学校だった(2年制の乙種も私立にあった。早稲田工手学校など)。
 小石川工業は大正年間に創立された自動車学校を引き継いだもので歴史の古い名門校で、電機、機械、建築の三科があった。東吾さんはどういう訳か建築科をすすめ、昼の勤務先まで世話してくれた。
 人手の欲しい日産化学から、2度もわが家に入社の誘いにきた(学校から断ったのに)。
 東吾さんの一言で私の進路は大きく方向転換した。正に大恩人であるが、惜しくも若くして亡くなった(佐野さんのお母さんは伊勢松坂の人で、特徴のあるなまりだったことを思い出した)。
 


(平成10年8月20日)


思い出すままに〈7〉

 


●市立小石川工業へbbいきなり副級長に
 佐野東吾さんの勧めに従って、市立小石川工業へ願書をもらいに行って驚いた。何と珠算3級の試験をうけた小石川高等小学校だった。つまり昼は小石川高小、夜は小石川工業だったのだ。
 入試は2月末か3月初めだったと思うが(昭和15年)、母が心配してついてきた。幸い天気がよく、風もない日で、母は試験が終わるまで校庭の陽当たりのよい隅に椅子を借りて座っていた。そういう人がもう1人いた。
 この年から中等学校入試は学科(筆記)試験を廃止し、内申書(小学校長の報告書)、口頭試問による人物考査、身体検査の三つによる総合評価によることになった。受験勉強による弊害を除去するという名目で実施されたものだが、私には幸いした。何の受験勉強もしていなかったからである。
 学校は大塚駅から市電(当時の呼称)で7つ目の同心町停留所の真ん前にあった(本郷3丁目から行けば、降りると10秒で学校に入れた)。付近には女子師範(現、学芸大学)、拓殖大学(現、紅稜大学)、東京女子高等師範(現、お茶の水大学)、文理科大学・東京高等師範(のち、合併して教育大学、現、筑波大学)、東亜同文書院(現在名、不明)、跡見高等女学校などがあり、まさに文教地区だった(昭和22年、小石川区と本郷区が合併して文京区となった)。
小石川工業には機械、電機、建築の三科があり、何れも定員40名。
人気の機械、電機は10倍以上、建築も5倍を超す難関だったが、運良く合格できた。
 入学してすぐ、筆記試験があった。これには面食らった。数学(連立方程式)など皆目わからず、あたりを見回すと皆一心に書いている。キョロキョロしていたら先生に見とがめられ名前をきかれた。
 ところがいきなり副級長に指名された(2学期からは選挙で級長に。これは卒業まで続いた。
 

●東大史科編纂所へ就職
 佐野東吾さんが世話してくれたのは、東大史科編纂所だった。赤門を入ったすぐ前にある(現在も)。不思議な役所で、第一東大構内にありながら東大でなく、文部省の所轄だったという。第二に何をやっているのかわからない。後に『大日本史料』という本を編集、発行するのが主な業務だとわかったが、この戦争中に何の役に立つのだろうか。戦争などどこ吹く風と日本の歴史を研究していた(『大日本史料』など知っている人はすくないだろう)。
 私の仕事は本の出し入れで、同僚は10人位いて、皆夜学に通っていた。書庫は地階から3階まであり、古文書〔こもんじょ〕や写真、巻物がぎっしり。隣は東大図書館で、外観は同じ建物に見えるが全く行き来できない。そしてここの本は学生や一般の人には見られない。所員だけだ。
 所員は見たい本の番号を索引して書名と番号を書いて差し出す。それが何枚かたまるとわれわれが、書庫から出し、本を胸のあたりまで抱えて各研究員に配って歩き(1人が5〜6冊要求する)、返された本を書庫に戻すのが仕事だ。研究室は『安土桃山時代』とかの時代毎に分かれていたようだ(勿論、古代は研究の対象外)。所長は辻善之助さん(有名な歴史家らしい)だったが、一般向の著書のある高柳光寿さん、桑田忠親さん。そして戦後、教科書裁判で有名になった家永三郎さん(東京教育大、名誉教授)もいた。古文書には各藩の文庫を模写したものが多く、尨大なものだ。パラパラめくってみると医学のことまで書いてある。
 旧家の個人や寺院所有の日記や手紙、記録(米の収穫高、年貢、相場など)、掛け軸(文字や絵など)もあったが、全国から探し出してきている。それらは痛んでいるものが多く、修理したり、模写したり、写真を撮ったりする。それぞれの係がいた。個人の日記や手紙が歴史を裏付けるものとして重視されている事を知った。

 仕事を1時間すると、1時間の休憩となる。休憩時間にお喋りや遊んでいるものはなく、それぞれが適当に散って熱心に勉強している。それにならって私も勉強し、遅まきながら向学心が芽吹いてきた。
 学校の授業時間は4時間だが、ここで4時間勉強していたことになる。 給料は日給50銭だが、日給月給制といい月15円だった。つまり31日の月も、28日の月も同じで、1日休むと50銭引かれる制度だった。 同級生の多くは、役所とか学校の給仕をしていたが、日給は70銭位と多かった。しかし、私の場合は実質1円と言えた。
 月謝は2円50銭と安かったが、後援会費など含めて4円50銭を学校に納入した。市電の定期は2円だった、と思う(全線ではなく、コースが決められていた)。
【注】昭和14年4〜5月の高小卒の初任給は、男子60〜70銭、女子55〜60銭、ラジオ(ナショナル新型3球式)62円、リュックサック(ハイキング用)4円50銭から (『昭和2万日の全記録』第5卷:講談社)
 

●席次1番にbb卒業まで1番で通す
 高小とちがうところは軍事教練があることだった。配属将校(蜂須賀という準尉だった)がいて、1年生は徒手教練、つまり銃を持たない教練だった。
 天皇陛下万能の時代で、「おそれ多くも……」とか「かたじけなくも……」という天皇の枕詞をきくや否や、一斉にカチッという靴の音がして、全員不動の姿勢をとる。両手の指までピンと伸ばし、目は真っ直ぐ前を見据える。
 天皇は現人神〔あらひとがみ〕で、日本は神国だという天皇絶対思想だが、これにすっかり洗脳されてしまった。
 教練の時間が足りないため、日曜日にもよく登校させられた。

 1学期の終業の日、教室で生徒手帳(通信簿)が渡されたが、先生がいきなり「中川!中川!」と呼ぶ。まだ教室がザワザワしている時で、よく聞こえなかった。すると「中川が1番だ」という囁きが起きた。何と席次順に通信簿をくれたのだった。これには驚いた。入学直後のテスト風景から、学友が皆秀才に見え、とても考えられないことだった。しかし、私はその後卒業まで1番で通した(卒業の時は病気で試験に出られなかったが)。
 クラスの中には建築関係の子弟が多く、私のように全く無関係の者は少なかった。製図などは見るのも初めてで戸惑ったが、親しくなった八鍬〔やくわ〕六郎君は「ヘタだなァ」などと軽口を叩きながら直してくれた。その彼の方が私より製図の点数が低かったのは、どうして??
 製図のある日は、1メートルもあるT定規を袋に入れて持ち歩いた。

 1年生の授業では一般教養科目は7割あったが、2年生では6割、3年生では5割、4年生では4割位になってしまった。昼間の中学校に較べて、基礎学力が落ちるのはやむを得ない。しかし、技術者としての基本や物の考え方が身についたと思う。

 夜学というが、夜中に勉強するわけでなく、夕方の5:20から始まり9:20までだった。学校は高台のはずれにあり、陽の長い6月頃は教室の中から座ったままで富士山がシルエットで眺められた。夕陽が富士の頂上に落ちる時期があり、すばらしい光景だった。
 1時限目が終わると、30分か40分の長い休憩があり、夕食する。外部の食堂がきてくれ、薄いカレーライス(か、ハヤシライスで他のものはない)を食べる。15銭だった。ごはんの量が物足りなく、もう1杯食べられそうだったがふところ具合を考えてガマンした。
 戦後の昭和60年頃、従業員の父兄代理として都立北高(現在、飛鳥高)の夜間部の授業参観をしたことがある。給食を生徒と一緒に食べたが、牛乳や果物までついていて豪華だった。しかし、教室では12〜13人がバラバラに離れて座っていて、先生の話を熱心にきいている者は数人だった。昔の私たちの喰いつくような熱気は全く感じられず、まさに隔世の感がした。
 

●生まれて初めての温泉旅行
 史科編纂所に就職した昭和15年の6月に一泊の慰安旅行があった。
上諏訪で、生まれて初めての温泉旅行だった。『布半』〔ぬのはん〕という一流旅館に泊まった。出発前の集合場所に行くと、世話役が人数を調べ、責任者に「全員、着到しました」と言っている。着到??到着じゃないのか、といぶかったが、漢文でこういう使い方がある、と先輩が教えてくれた。さすがに学者だな、と感じた。帰途、若い者達で御岳昇仙峡に寄った。
 翌年5月には、那須温泉に連れて行ってくれた。仲間で茶臼岳の頂上まで登り、噴煙がくすぶる火口(両手で作った輪ぐらいの硫黄の噴出口が沢山ある)を間近に見た(無風のときは亜硫酸ガスで危険なのを知らなかった)。
 先輩のリードで南月山までハイキングをして帰ったが、これが5万分の1の地図(当時は陸軍参謀本部の地図といい、13銭だった)を頼りに山歩きするきっかけになった。

 昭和16年12月大東亜戦争(当時の呼称)がはじまり、昭和17年以降の旅行は中止になった。
 

●市電・王電
 小石川工業では四大節(四方拝、紀元節、天長節、明治節)の式典を早朝の宮城前広場で行った。朝早く飛鳥山まで歩いて市電に乗るが、7時前なので赤い早朝割引(往復9銭、帰りの時間はいつでもいい)が利用できた。
 王電(王子電車)は、王子〜赤羽が大正15年、三ノ輪〜早稲田が昭和5年に開通していたが、市電に乗るには飛鳥山まで行かねばならなかった。王電が市電に吸収合併されたのは昭和16年9月で、更に[飛鳥山〜日本橋]の路線が[王子〜日本橋]に延長されたのは戦後の昭和24年8月である。それまで旧王電の飛鳥山と市電の飛鳥山の僅か数10メートルの間にレールがなく、つながっていなかった。

 市電は何処まで行っても7銭だった。東京市内を網の目のように路線が走り、乗り換える時は車掌に言うと、白い乗換え券をくれた。時間を気にしなければ、東京の隅から隅まで行ける安い乗り物だった。
 昭和18年7月東京都制が実施されて市電が都電になった。
『トデン!』は響きの悪いヘンな感じだった(学校も市立から都立に変わった)。
 戦後、都電は殆ど廃止され、昔の王電だけが荒川線として唯一残っている。
 

●やってきた代用品の時代
 戦争が長引き、物資が不足し、綿糸の切符制がひかれた(昭和13年2月1日)。切符が各家庭に配られ、切符がないと綿糸が買えない。そこで綿製品に代わってス・フ(ステーブル・ファイバー)が登場した。木材パルプを原料にしたもので、熱湯にも冷水にも弱く、洗濯は主婦泣かせだった。また濡れると縮むので、これを茶化した映画のシーンを覚えている。道路で誤って水をかけられた男性のズボンがみるみる縮んで、すねが現れるといったものだった。それ程でもなかったが、ス・フは粗悪品の代名詞になった(ス・フは現在もレーヨンとして生産されているが、改良されている)。
「純めん」という言葉が郷愁をこめて流行した。

 金属製品が回収され、橋の欄干から、マンホールの蓋、果てはお寺の鐘までが供出させられた。鍋、釜、七輪、湯たんぽ、ボタンなどの鉄製品に代わって陶磁器が登場した。

 代用品のケッサクは木炭自動車だろう。「ガソリンの一滴は血の一滴」というスローガンのもとに、ガソリンは切符制になり(昭和13年4月1日)、木炭自動車が登場した。車体のうしろにガス発生炉をつけ、木炭または薪を燃やして走るのである。
 バスも木炭車に切り換えられたが、力がないので飛鳥山の坂がどうにも登れず、満員の乗客の半分が降ろされるのを実際に見たことがある。
 

●征兵士を送る歌と千人針
 召集令状(赤紙と呼ばれた)をもらった人を、日の丸の小旗を打ち振って『露営の歌』を歌って駅まで送る風景があちこちに見られた(のち、兵力を増強しているのが、スパイにわかってしまう、という理由で禁止された)。
 「♪勝ってくるぞと勇ましく/誓って国を出たからは/手柄立てずに死なりょうか/進軍ラッパきくたびに/まぶたに浮かぶ旗の波」
というものだった。いい曲であるが、これが哀調を帯びているというので大日本雄弁会講談社が、1等賞金1,500円というとてつもない大金で『出征兵士を送る歌』を募集した。これに作詞128,592点作曲18,617点の応募があり、生田大三郎(作詞)、林伊左緒(作曲)が当選、昭和14年11月3日発表された。
 「♪わが大君に召されたる/生命〔いのち〕〔はえ〕あるあさぼらけ/たたえて送る1億の/歓呼〔かんこ〕は高く天をつく/いざ征〔ゆ〕けつわもの日本男児」
という力強いもので、私らも覚えさせられた(今でも歌える)。しかし、日本人にはこの長調の歌より、短調の『露営の歌』の方が好きらしく、あまり歌われなかった。
 出征する人には家族から『千人針』が送られた。木綿の日本手拭いに点で虎の絵が描かれている。その点の上に女性に赤い糸で結び玉をつくってもらう。1人1点だが寅年の女性は年の数だけ縫ってもらえる。虎年の女は大もて(大変)だった。
 虎は「一日千里を走って、千里帰る」という意味があり、「帰ってきてほしい」という願いがこめられていた(千人針を腹に巻いていると弾丸に当たらない、という説もあった)。
 町の辻には、千人針をお願いする女性が並んでいる風景がみられた。
 

●紀元二千六百年奉祝行事で花電車を見る
 昭和15年(1940)は国の内外で情勢が激しく動いていた。ドイツ軍は北はデンマーク・ノルウェーを制圧し、西では難攻不落といわれたフランスのマジノ線を突破してベルギー・オランダを席捲し、フランスを降伏させて、6月14日にはパリに入城した。そして英本土上陸作戦に備えて、猛烈なロンドン空襲をくりかえした。
 このドイツの勢いに、日本はバスに乗り遅れるなとばかりに、仏領インドシナ(現在のベトナム)北部に進駐(9月23日)、日独伊三国軍事同盟を締結した(9月27日)。

 アメリカはこれに対抗して、日本に鉄鋼禁輸措置を実施、日米両国は険悪な雲行きになった。

 こういう緊迫した時期に、政府は何を思ったのか『紀元二千六百年奉祝行事』を昭和15年11月10日を中心に、5日間にわたって華やかに行った。赤飯用のモチ米が特配され、昼酒も公認された。旗行列、提灯行列が行われ、奉祝歌が作られて、われわれも覚えさせられた。

 「♪金鵄〔し〕輝く日本の/栄〔はえ〕ある光身に受けて/今こそ祝えこの朝〔あした〕/紀元は二千六百年/ああ一億の胸は鳴る」
という歌詞で行進曲風のものだった(これも、今でも歌える)。ところが、子供らの間では
 「♪“金鵄”あがって15銭/栄ある“光”30銭/今こそ高いこの煙草/紀元は二千六百年/ああ一億は皆困る」という替え歌が流行した。

 紀元(神武天皇創業)2,600年というのは学問的には全く根拠のない架空のものであることは、すでに津田左右吉博士らによって実証されていたが、政府はこれを無視したばかりか、国体に有害であるとして津田博士らを弾圧した。
「この式典は、非合理的な国家主義思想の大々的宣伝であるとともに、国民にあたえられた息抜きの機会でもあった」(遠山茂樹:『昭和史 改訂版』岩波新書)
 この行事の一環として花電車が登場した。市電を花と人形で飾り立てたもので、私は夜、家族と一緒に飛鳥山まで見物に行った。大勢の見物人の中にまじって待っていると、やがて花電車がやってきた。その強烈な光のまぶしさに目を奪われ圧倒された。見物人から一斉に拍手と喊声が上がった。花電車は次々に2、3台きた(意匠がちがう)。
 飛鳥山は終点なので、前後のポールを交換して引き返して行ったが、ポールを外す度に光が点滅し、まさに《真夏の夜の夢》のような趣だった。

 永井荷風は『断腸亭日乗』(岩波文庫)の中で「灯ともしころ土州〔どしゅう〕橋の医院に行く。水天宮門前に花電車数輌置きならべあり。見物人雑踏す。一輌三千円かかりしなど語り合へり」と書いてある(昭和15年11月16日の項)。

 式典のために宮城前広場に3ヶ月がかりで杉皮葺寝殿造の式殿『月華殿』が造られた。その一部が小金井公園に移されて現在もある。今年4月、私と家内はお花見を兼ねて、この公園内にある『江戸東京たてもの園』を見に行ったが、月華殿前の広場は花見客でごった返していて、平和そのものだった。


(平成10年9月5日)


思い出すままに〈8〉


●鈴木寿治君のこと
 ここにわが家で一番古いアルバムがある。戦時中、疎開しておいて助かったものだ。このアルバムは銀座の伊東屋で買ったもので、高いと思ったが、いいものなので思い切って買ったことを覚えている。その第1頁に小石川工業学校1年生(昭和15年12月)と、2年生(昭和16年4月)の時の記念写真が貼ってある。
 今、よく見ると布地の表紙の裏に小さなラベルがあり、〈伊東屋 *公¥283―物品税20%込〉と書いてある。当時も物品税(今の消費税)があったらしい。しかも20%の高率で。しかし、2円83銭もしたのだろうか。学校の月謝(2円50銭)より高い。〔*公:公定価格〕
 それはともかく、写真は写真館のスタジオで撮影したもので、私と八鍬〔やくわ〕六郎君、鈴木寿治〔としはる〕君、佐藤健也君の4人で、2枚とも同じ顔ぶれである。
 この中で現在も健在なのは私だけである。先ず佐藤健也君は卒業前に肺結核にかかって故郷の仙台へ帰ったが、後日お姉さんから亡くなったという連絡があった。田舎育ちのきれいな身体で都会へきて感染したらしい(母の弟の水上清さんと同じケースだ)。
 スポーツマンだった八鍬六郎君は、卒業後不明だったが、数年前彼の兄で画家の四郎さんが主体美術協会の会員であることを偶然知り、四郎さんに電話して消息がわかった(四郎さんが画家であることは、在学中六郎君の家に遊びに行って知っていた。『太平洋美術展』で四郎さんの作品を見たこともある)。それで、六郎君は昭和38年頃、故郷の北海道、富良野で過労のため死んだことを知り、がっかりした。
 さて、鈴木寿治君だが、彼も平成2年8月、故郷の新潟で、がんで亡くなった。入院中ときいて死ぬ直前、このアルバムを持って新潟の病院へ見舞いに行った。学校時代、相撲部の主将で活躍した筋骨たくましかった男が、見る陰もなくやせ衰えていた。アルバムを見せながら、昔話をしたが、「東京へもう一度行ってみたい。王子にできた“北とぴあ”も見てみたい。いや、車椅子でこの病院内を一回りしてみたい。せめてベッドに腰掛けてみたい。」という彼の言葉に慰めの言葉もなかった。がんは彼の腰の骨まで蝕んでいた。
 肺結核、過労、がん、と戦中、戦後、現在の三つの死因が並んだが、頑健といえない私が残っているのは不思議だ。

 不思議といえば鈴木君との仲だ。級長で常に席次トップの私と、ドン尻近くで毎年落第を心配している彼が大の仲良しとは。
 親しくなったきっかけは、はっきり思い出せないが、鈴木君も同じ王子に住んでいたからだろう。しかし、何と言っても彼の人柄に魅せられたからだろう。ずんぐりした身体で、のっそりした動作。控え目で無口。純粋で、誠実で正義感の強い彼は、少年倶楽部で愛読した『英雄行進曲』(佐藤紅緑作)の主人公丑太そのものだった。
 彼は通学するのに、市電(都電)で王子〜大塚(乗りかえ)〜同心町が近いのに、わざわざ王子〜本郷三丁目(乗りかえ)〜同心町と遠回りしてくる。本郷三丁目の停留所(路面から10センチ位高くなっている)で私と待ち合わせるためだ。私は勤務先(赤門前)から本郷三丁目までは一駅で、歩いても5.6分だ。いつも正確に行ける。ところが彼は父親の建設現場で働いていて、私のようにはいかない。彼が20分も早く来て待つこともあったが、私が待たされる場合が多かった。時計をにらみ、気をもみながら、ギリギリまで待つ。私は級長だから遅刻はまずい(教室で「起立!礼!」の号令をかけねばならない)。
 本郷三丁目から同心町まで、15分か20分である。その短い時間のために3年以上も毎日2人は待ち合わせたのである。
 

●アメリカ映画にかぶれる
 鈴木君とは、休日によく映画へ行った。いつも本郷三丁目から歩いて5.6分の『本郷座』だった。ここは江戸時代の芝居小屋(市村座?)だったところで、外国映画の二番館だった。封切館(新宿の武蔵野館、浅草の大勝館、など)は80銭だったが、ここは55銭と安かった。ただ、封切館と二番館の間隔が1ヶ月以上あった(この間に、地方都市を回るらしかった)。
 アメリカ映画が主で、覚えているのは『マルコポーロの冒険』『モダン・タイムス』『シー・ホーク』『雨ぞ降る』『ハリケーン』『空の要塞』『邂逅〔めぐりあい〕』『駅馬車』などだ。活劇あり、冒険あり、恋愛あり、戦争あり、ユーモアありと、すばらしい映画ばかりで毎回夢中で見た(雨ぞ降る・ハリケーン・めぐりあいは戦後リメークされた)。
 見てきた映画を母に話すものだから、ある時母が私も見たい、と言い出した。「エッ!アメリカの映画だよ、字幕だよ!」と驚いたが、とにかく本郷座へ連れて行った。その日母はよそ行きの着物で若返ったような姿だった。何の映画を見たか忘れたが、面白かったと言う。その帰りに私を本郷三丁目の交差点にあった明治製菓へ連れて行った(このビルは現在もある)。
 毎日、この前で鈴木君と待ち合わせしているのに、入ったことはなく、場違いの感じで気おくれしたが、母はさっさと2階のパーラーへ上ってゆく。ここで当時まだあったケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。喫茶店は初めてだった。
 たまたまその時、売店に明治キャラメルの大箱(10銭)があり、制限一ぱいの10箱(1人5箱)も買ってくれた。そんなに金を使うのにびっくりしたが、母は父に内緒のヘソクリを持っていたらしい。
 幼い時、母に連れられて映画館に行った記憶がある。近くの『築地館』で、お化けの映画だった。私は怖くて、母のうしろにかくれ、しかし、たもとで顔を半分かくしてこわごわのぞいたものだった。
 そして戦後まもなく、2人で『王子レコード館』へ行き、『仔鹿物語』を見た(この時私は泣けて泣けて涙が止まらなかった)。母は小説好き、映画好き、芝居好きだったが、一緒に映画を見たのは以上の3回だけだった。もっと連れて行けばよかったと今になって後悔している。
 

●映画の思い出〈1〉
 東大では隔週の土曜日に法文25番教室で名画会が開かれた。
毎回学生にまじって見せてもらった(無料)。
 『にんじん』『トランプ譚〔ものがたり〕』『科学者の道』『偉人エーリッヒ博士』『人間エジソン』を覚えているが、どれもこれも素晴らしく、まさに名画だった。ことに『科学者の道』はパスツールの伝記で、感動で胸がふるえる思いがした。
 本郷座で見た『邂逅〔めぐりあい〕』は戦後2度もリメークされた(1957:デボラ・カー/ケイリー・グラント)(1994:ウォーレン・ベイティ/アネット・ベニング)。この時のは1939年の作品で、アイリン・ダン/シャルル・ボワイエだった。甘いラブ・ロマンスで、あいびきの約束をして、エンパイア・ステートビルの屋上で男が待っているのに、女は現れない(女はビルの前で交通事故に遭っていた)。するとビルの下の方で雷が鳴り、夕立となる。ニューヨークの摩天楼の高さにびっくりした(1988年、私と家内は、このビルの展望台まで昇った)。('94年のリメークの時は世界貿易センター・ビルに変わっていた)
 『空の要塞』はB17(ボーイング17)そのものが舞台で、4発エンジンの巨大な爆撃機の中で、ドラマが展開する。弾倉を開いて爆弾を投下するシーンがあり、こんな内部まで公開していいのだろうか、と余計な心配をした。しかし、この頃アメリカはB17より二回りも大きいB29の制作にかかっていたことが戦後になってわかった。
 

●大東亜戦争はじまる
 映画ですっかりアメリカびいきになっていた私の耳に、昭和16年12月8日(月)の早朝、とんでもないラジオ放送が飛び込んできた。
「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
というものだった。カン高い声を張り上げて繰り返して放送しているが、アナウンサーでなく大本営の報道部長だった。まさに寝耳に水の衝撃的なニュースに身体が震える思いがした。
 あのアメリカと戦って勝てるのだろうか。疑問と不安を抱いて史料編纂所に出勤した。
 11時すぎに皆がラジオの前に集まっている。私は途中から、うしろの方で聞いたのだが、すぐ宣戦布告の詔勅だな、とわかった。というのは、書庫で日露戦争の時の詔勅を読んでいたからだ。それにそっくりな文章だった。
 私は『邂逅』でみたニューヨークの摩天楼や、高度の文明社会。そして『空の要塞』のB17を思い合わせてアメリカに勝てるとは思えなかった。 所員の顔色をうしろからそっとうかがうと、皆沈痛な顔色をしているものの動揺の様子はなく、ホッとした。

 そしてハワイでの奇襲成功(アメリカからすれば、ダマシ討ち)、2日後の12月10日のマレー沖での英主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの撃沈。更に12月25日香港、1月2日マニラ、2月15日シンガポールの陥落と、矢継ぎ早の戦勝のニュースに、私の杞憂はいつしか吹き飛び、有頂天になってしまった。
 しかし、この戦争は無謀だった。アメリカ経済のわずか十分の一にみたない日本の総生産力をもってしては、勝ち抜くことは不可能だった。

 相手は大和魂や必勝の信念では太刀打ちできない物資と生産力をもっていた(そのことが2年後、いやという程思い知らされる)。そして“リメンバー・パール・ハーバー”を合い言葉に団結して向かってきた。

 『少年H』(妹尾河童:講談社1997年刊)を読むと、少年Hのお父さんは神戸の一介の洋服仕立屋さんに過ぎないが、“この戦争は負ける”“空襲はひどくなる”と早くから少年Hにささやいている。お得意先の外国人から得た情報から判断したのだろうが、先見の明には感心させられる。

 開戦によって、アメリカ映画の上映は禁止され、すでに封切りされていた『城砦』『スミス都へ行く』は二番館へ来ないままに見損なってしまった。楽しみにしていた『ガリバー旅行記』(アニメ)は封切り前にお蔵入りになってしまった。
 『スミス都へ行く』は戦後公開され、2度も見たが、民主主義はかくあるべし、というお手本のような映画で、これを見ればアメリカが侮れない国とわかった筈なのに。
 

●姿 三四郎
 この原稿を書いている時、9月6日黒沢明監督(88)の訃報があった。政府は国民栄誉賞を贈ったが、ファンの一人としてその死を心から悼む。

 彼の作品は30本になるというが、第1作は昭和18年の『姿三四郎』(脚本も)である。
 この映画は懐かしい。というのは、映画化される1.2年も前に原作(富田常雄)の単行本を友達と回し読みし実に面白く、『続・姿三四郎』が出るや、これまたすぐ読んだ。それが映画になったものだから早速見に行った。
 姿三四郎(藤田進)のモデルは講道館(映画では修道館)の創立(明治15年)当初の四天王の一人の南郷次郎で、作者のお父さんだと何かの雑誌で読んだのを今でも憶えている。
 映画は、三四郎が上京し嘉納治五郎(映画では矢野正五郎:大河内伝次郎)の修道館に入門して、柔道の技と人間を成長させてゆく過程を描いているが、恋あり、試合ありで実に面白い。蓮池に飛び込んだ三四郎が杭につかまりながら師と人生問答して朝を迎えた時に、見た白い蓮の花。試合相手の村井半助(志村喬)の娘、小夜(轟夕起子)と知らずに彼女の下駄の鼻緒をすげてやるシーン。最後の桧垣源之助(月形竜之介)との迫力ある決闘シーンなど、実に新鮮だった。
 『姿三四郎』は昭和18年3月に封切られたが、翌19年3月の再上映の際、当局から命じられ、監督が知らぬ間に1,856フィート(約618メートル)もカットされてしまった。戦後、切られたネガを探したが、遂に発見できなかったという。封切り後すぐに見た私は幸運だった。

(平成10年9月21日)


思い出すままに〈9〉


●戦争の被害
 太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼んだ)は、戦死者約200万人、空襲や原爆の犠牲者、沖縄や満州などで巻きぞえとなった非戦闘員を加えて、合計300万の人命が失われた。戦災で焼かれたり、強制疎開でとりこわされた住宅は310万戸、ほぼ1,500万人が家を失い財産を焼かれた。戦争の被害は深刻だった(遠山茂樹ほか『昭和史』岩波新書)
 勝った勝ったではじまった戦争だったが、まさかこんな悲惨な結果になるとは誰も予想しなかった。私の家も焼かれ、家内の兄は中国で戦死した。
 今回は、国民に塗炭の苦しみを与えた太平洋戦争について考えてみたい。そしてマスコミの無責任ぶりにもふれてみたい。
 

●何故アメリカと戦ったのか
 当時の私(満15才)には寝耳に水の日米開戦だったが、今いろいろの本で調べてみると、事実上の開戦はその1年も前にあったことがわかる。
 昭和15年7月、第二次近衛(文麿)内閣が発足した(外相は松岡洋右)。近衛はアメリカとの戦争に反対だったというが、その2か月後の9月27日、日独伊三国同盟を締結した。このときすでに英国はドイツ、イタリアと戦っていて、その当の相手と同盟を結ぶことは英国、そして事実上その同盟国であるアメリカを敵にまわすことにほかならなかった。アメリカが日本に対して不信と敵意の度を増すことになったのは当然である。日本が紀元2,600年の奉祝行事に浮かれていた頃である。
〔1940(昭和15)年9月、第二次近衛内閣が日独伊三国同盟を結んだことは、事実上太平洋戦争への道にふみきったことを意味した。遠山茂樹ほか『昭和史』〕

 そして昭和15年9月23日、北部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)に武力進駐。更に昭和16年7月23日、アメリカの警告を無視して仏印南部に進駐を発令した。
 これに対して、アメリカは直ちに(7月25日)日本の資産を凍結し、8月1日石油をはじめとして、重要物資いっさいの対日輸出を禁止した。英国、オランダも同じ措置をとったが、石油の禁輸は日本にとって致命的だった。
 近衛が三国同盟を結んだについては、ソ連を加えて四国同盟にする構想があったという。しかし、昭和16年6月22日、ドイツはソ連と開戦し、この構造はたちまち行き詰まった。甘い判断だった。(鳥居民『日米開戦の謎』草思社、1991年刊)
 結局近衛は内閣を投げ出し、昭和16年10月18日東条英機内閣が誕生した。

 それにしても、誰でも負けるとわかっている喧嘩はしないと思う。ましてや国と国の戦争では負けたら悲惨なものになるからなおさらだ。
 この戦争を自衛のための戦争、やむにやまれない戦争だった、という人もいる。しかし、ヤケッパチや、イチかバチかで戦争をはじめたわけではあるまい。
とすると、やはり日本はアメリカに勝てると思って戦争をはじめたにちがいない。この思い違い(とくに陸軍)の原因は次の3点にありそうだ。
1、科学技術を軽視し、精神力(大和魂)で勝てると思った。
2、自由を謳歌するアメリカ人は、長い戦争に倦み、戦意を喪失する。
3、ヨーロッパでは、ドイツが勝つ。
 これらは何れも囲碁用語でいう『勝手読み』(自分の都合のよいように相手が打つだろう、と考える)だった。更に一連の軍事行動を国民が圧倒的に支持したことも、軍に自信をつけさせた。これにはマスコミ(新聞)に責任がある。

 昭和16年7月21日、当時の海軍軍令部総長の永野修身は次のように語っている。
 「アメリカにたいして、いまなら戦勝の算はあるが、時を追ってその公算は少なくなる。明年後半以降はもはや歯が立たなくなる。戦わずにすめばそれに越したことはないが、とうてい衝突が避けられないとするなら、時を経るとともに不利になることを承知してもらいたい」(参謀本部編『杉山メモ』原書房、1967年刊)
 

●日米の経済力
 ここで当時の日米の経済(生産)力を調べてみよう。
1、日米重要物資倍率(日本を1とする)
 


(※算術平均値)

(国民経済研究所編:基本国力動態総覧…『決定版昭和史』第10卷、毎日新聞社から)
2、日米航空機生産高
 

3、アメリカからの軍需物資輸入額(昭和15年)
 


(2、3とも遠山茂樹ほか『昭和史』から)

 何のことはない、軍需物資の大半をアメリカに頼っていたのだ。

4、戦力の基本になる日本の鉄鋼(普通綱)の生産高は、昭和15年、456万トン、昭和16年430万トンだったが(佐木隆三『開戦前夜、鉄と戦争』日本評論社、1985年刊)、アメリカはその12倍に達していた。
 今年(1998年)の日本の粗鋼生産高は、不況のため27年ぶりの低水準で9,400万トンの見通しである(1997年度は1億280万トン)。それでも昭和16年の約22倍である。当時が如何に貧弱であったかがわかる。

5、自動車の生産高に至っては話にならない。昭和14年[30,691台]、昭和15年[36,881台]、昭和16年[40,668台]に過ぎない(殆どがトラック)。今年(1998)の日本の自動車生産は、1979年以来19年ぶりの低水準で1,000万台を割る可能性があるものの(最高は1990年の約1,350万台)、昭和16年の4万台は、現在の僅か1日半分の生産高である。

6、当時、アメリカでは自動車の運転免許を持っているのが当たり前であったが(現在の日本のように)、日本には5万人しかいなかった。アメリカでは軽飛行機の免許所持者が5万人いた(以前に読んだ本の記憶)。

7、これらの情報を国民は知らない(知らされていなかった)が、軍や政府は各国にいる在外武官などによって充分知っていた筈だ。前述の永野軍令部総長の話でもわかる。
 

●昭和天皇の考え
 では、昭和天皇は開戦についてどう考えていたのだろうか。
寺崎英成が記した『昭和天皇独白録』(文芸春秋社、1991年刊)で検証してみた。この本は終戦直後の昭和21年3月から4月にかけて、松平慶民宮内大臣、寺崎英成ら5人の側近がT張作霖爆死事件から終戦Uに至るまでの経緯を、4日間計5時間にわたって、昭和天皇から直々に聞いたものをまとめたものである(私は、この本が出版されるとすぐ買った)。
 この時期は、極東軍事裁判(いわゆる東京裁判、昭和21年5月3日開廷)の直前であり、[天皇の戦争責任]が問われるのか(天皇が被告になるのか)否か微妙な時で、天皇のいいわけ、弁解的なものが含まれている、と見られないこともない。以下昭和天皇の言葉。

〔その1〕石油の輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は万一の僥倖に期しても戦った方が良いといふ考えが決定的となったのは自然の勢いと云わねばならぬ。若しあの時私が主戦論を抑えたらば、陸海軍に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈伏すると云ふので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろう。実に難しい時であった。その時にハルのいわゆる最期通牒が来たので、外交的にも最後の段階に立ち至った訳である。(71頁)
[その2]翌30日(昭和16年11月)、高松宮がきた。戦争の見通しについて話し合ったが、宮の言葉によると、統帥部の予想は五分五分の勝負か、うまく行っても六分四分で辛うじて勝てるといふ所だそうである。私は負けはせぬかと思ふと述べた。宮はそれなら今、止めてはどうかと言ふから、私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ。若し、認めなければ東条(英機首相)は辞職し、大きな「クーデタ」が起こり、かえって滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであろうと思ひ、戦争を止める事に付いては、返事をしなかった。12月1日に、閣僚と統師部との合同の御前会議が開かれ、戦争に決定した。その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云わなかった。(76頁)

 この昭和天皇のクーデタ発言に関しては、ジョン・ガンサーの『マッカーサーの謎』の中で、次のような会話がかわされた、と記している(『昭和天皇独白録』71頁)
 天皇は今度の戦争に遺憾の意を表し、自分はこれを防止したいと思ったといった。するとマッカーサーは天皇の顔をじっと見つめながら、「もしそれが本当とするならば、なぜその希望を実行に移すことができなかったのか」とたずねた。裕仁の答えはだいたい次のようなものだった。
 「わたしの国民はわたしが非常に好きである。わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしを精神病院か何かにいれて、戦争が終わるまで、そこに押し込めておいたにちがいない。また、国民がわたしを愛していなかったならば、彼らは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう。」と。

これによると、昭和天皇は和戦の決断については、わが身の心配を考えるのが先で、国民のことは念頭になかったようだ。天皇のためには、いつでも死ねと教えられ、その気でいた私にとっては裏切られた思いである。
軍があれ程欲しがり、開戦の決意をさせた石油が、戦後満州(現在の中国東北部)の地下から大量に発見された(大慶油田)のは皮肉な話である。
 

●戦争をあおった新聞
 国民に戦争をあおり、軍に開戦の決意をさせる一因にもなった新聞の責任は大きいと思う。
 戦争中の新聞は『国家総動員法』(昭和13年制定)や『新聞紙等掲載制限令』(昭和16年制定)などによって厳重な言論統制と報道の規制のワクがはめられ、その上、軍の干渉や圧力を受けた(注1.2)。とはいえ、軍に迎合して、戦争への協力を読者に迫り、戦意をあおった姿勢はおおうべくもない。負け戦でも「勝った」と書き、一夜で約10万人が死んだ東京大空襲の被害を詳しく報じず、広島への原爆投下も、第一報では「若干の被害」と書いた。
だから次のような反省の弁もある。
「日独伊三国同盟が調印された時、日本の新聞幹部の大多数はこれに反対であったと思ふ。……いかし、如何なる国内情勢があったにせよ、日本国中一つの新聞すらも、腹に反対を抱きながら筆に反対を唱えなかったのは、そもそも如何なる悲惨事であったか」(『朝日新聞社史』大正・昭和戦前編)
 これは戦後、緒方竹虎が遺稿の中にのこした言葉である。緒方は戦時中、朝日新聞の主筆であり、戦後、同社副社長から請われて政界入りし、次期総理と目された人物だったが、惜しくも亡くなった。

(注1)統制に反して新聞を作ることは、当時の検閲体制の下では事実上不可能だった。もしできたとしても、発禁などの処分が待っていた。
(注2)戦後、米軍占領下の日本はGHQ(連合軍総司令部)による新たな言論統制をうけ、それは昭和51年(1976)のサンフランシスコ講和条約の調印まで続いた。
(朝日新聞取材班『戦後50年メディアの検証』三一書房、1996年刊)
 

●新聞による扇動
 新聞の扇動で騒擾事件が起きたのは、日露戦争(明治37〜38年)の終結の時だ。奉天の会戦で日本軍は勝ったというものの、兵器、弾薬は底をつき、逃げるロシア軍を追撃できなかった。戦費調達のめども立たず、日本の戦争継続も限度とし、日本政府は譲歩に譲歩をしてポーツマスでロシアと講和条約を結んだ(ポーツマス条約)。結局賠償金はとれず、樺太も南半分だけになってしまった。
 これを野党とマスコミが攻撃し、これにあおられた群衆は東京で警察署、交番、内務大臣、外務大臣の官邸を襲って破壊、放火する騒擾事件となった。下谷、深川両警察署はじめ、分署7、交番226(東京の交番の7割以上)が焼き払われ、付近の民家49戸が焼失した。さらに電車16台と、キリスト教教会12も焼かれ、ただ一紙講和条約を支持していた国民新聞も襲われた。

政府はついに戒厳令を出し、軍隊で鎮圧した。政府は国の内情を明らかにすると、ロシアを利し、交渉が決裂になることを恐れて、厳に秘したのである。
 当時の政府(首相 桂太郎、元老 伊藤博文、同 井上馨、同 松方正義)と軍(参謀本部総長 山県有朋、満州軍総司令官 大山巌)は結束して戦争を終結させた(吉村昭:『ポーツマスの旗』新潮社、昭和54年刊)。
太平洋戦争では、こういう傑物がいなかった。沖縄を取られても尚陸軍は[本土決戦]を叫んでいた。
 

●『教科書検定』での誤報
 話は横道にそれるが、戦後37年も経って、マスコミの誤報と政府の対応のまずさで日本が苦境に立たされる事件が起きた。
『教科書検定』問題である。
昭和57年6月26日、朝日新聞は社会面の半分以上と、第二社会面の四分の一ををつかって、文部省は検定前の日本史教科書を(華北への)、『侵略』を『進出』に変えさせたと一大キャンペーンをした。そして翌27日にも同じ場所に同じくらいの記事を出した。他社も追随した。
 中国、韓国は、日本の新聞報道によれば、と前置きして日本政府に抗議、重要な外交問題に発展してしまった。
 ところが、これは全くの誤報だった。時の小川文相は国会で『侵略』を『進出』に改めさせた例はない、と答弁しているのに、新聞は小さく取扱い、無視したのも同然だった。
 しかし、調査の結果、やっとその事実のないことがわかって、サンケイ新聞は9月7日と8日の2日にわたって「読者に深くおわびします」という大きな記事を載せた。他社も『社告』で謝罪と訂正を行ったが、朝日新聞は文部省の発表が正しかったと認めたものの、誤報であったと言わず、その代わり文部省が昭和30年代以来の『侵略』という字を使わないように指導していたということを若干の例を挙げて強調、謝罪をしなかった(以上は、林健太郎『外圧に揺らぐ日本史』光文社、昭和62年刊を参考にした)。
 誤報で世間の笑いものになった朝日新聞の記事がある。詳しい年月は忘れたが、夕刊第一面の大半を使って、日中戦争で日本軍が毒ガスを使った証拠写真なるものを掲載したのだ。場所、日時は特定していないが、大陸らしい荒野に白煙が数条空高く舞い上がっている。
 これは誤報というより、朝日の記者の無知をさらけ出したものだった。早速同業のサンケイ新聞がイチャモンをつけた。
1、毒ガスにわざわざ色をつけるバカがいるか、
2、無風の時に毒ガスを使うか(これは味方にとって危険である。毒ガスを使うのは、微風が敵方向に吹いている時である)
結局、この写真は、毒ガスでなく、ただの煙幕だとわかった。

 更にもう一つ。これは誤報でなく、犯罪である。比較的最近の事なので覚えているでしょう。沖縄の海にもぐり、サンゴに記者自らがキズをつけて写真を撮り、ずうずうしくも「サンゴを傷つけたのは誰だ」とキャンペーンをしたのであった。
 最近の誤報では、1994(平成6)年6月、死者7人、重軽傷者600人を出した松本サリン事件がある。第一通報者で被害者の河野義行さんがあたかも犯人として報道されてしまった。長野県警の[河野クロ説]に引っ張られた面もあるが、翌年3月20日の東京地下鉄サリン事件でオウム真理教が浮かび上がって、漸く河野さんの疑惑がとけた。各新聞社、テレビ局は謝罪したものの、その間約1年かかっている。

 マスコミ批判(とくに朝日新聞)になってしまったが、最近は衛星テレビが普及し(アメリカのニュースが生で見られる)、情報量がふえたので、私らも利口になり、マスコミの扇動には簡単に乗らなくなったものの、気をつけねばならない。
 「先ず疑え」――これがT科学する心U(当時の橋田邦彦文相のことばで流行語になっていた)だと戦時中に教えられたことを思い出す。

(平成10年10月10日)


思い出すままに〈10〉


●つらかった強歩大会
 焼け残った一番古いアルバムに貼ってある一枚の写真。胸にゼッケン番号をつけ、川原の浅い瀬に足を入れて小倉伝治君と立っている。その下に「四月三日強歩大会に初参加、41粁を踏破して3級に入る、多摩御陵橋の下」と書いてある。この写真を眺めていると、あの時のつらく、にがい思い出が甦り、泣きたい気持ちになる。

 昭和17年4月3日(満16歳の時)、明治神宮−多摩御陵41Kmの《強歩大会》に自主参加した。私(級長)と組んでいた副級長の小倉伝治君と一緒だった。走るのは苦手だが、歩くのなら自信があると張り切って参加したのだが、新しい固い靴を履いたのが失敗だった。

 新しい靴は、この日のために父が買ってくれたものだ。布製だがコチコチに固めてあり、革の代用品の編み上げ靴だった。その頃革靴はもう手に入らなくなっていた。
 これがいけなかった。後で考えれば、どうして新品の固い靴を履いて行ったかのか。私も父も経験不足で無知だった。履き馴れたズック靴がよかったのだ。
 歩き出して間もなく、靴ずれができて痛くなったが、ガマンして歩いた。靴ずれは指先だけでなく、かかとや足の裏まででき、ゴールインしたときは、水ぶくれがつぶれて血だらけの皮膚がむき出しになっていた。
 帰りのバスでステップが降りられず、つかまりながらやっと降りた。よろよろと家にたどりついたが、私の姿と足を見た両親はびっくり仰天、父は私を背負って銭湯へ行ってくれた(わが家に風呂はなかった。当時自家風呂のある家は少なかった)。

この強歩大会は、戦時下の体育奨励のため、昭和15年10月20日に第1回が行われ、6,200人が参加したという(『昭和2万日の全記録』第5卷:講談社)。
 この日も3,000人位が参加したが、私たちのような少年は少なかった。
 ルールが3つあり、7時間以内で金バッヂ、8時間以内で銀バッヂ、9時間以内で銅バッヂがもらえる。
 〈イ〉必ず、どちらかの片足が地面についていること(走ってはいけない)。
 〈ロ〉重量物10L以上を背負うこと。
 〈ハ〉途中の検問所でスタンプを押してもらうこと。

 朝8時神宮外苑を一斉にスタート。甲州街道へどっと繰り出した。このコースにほぼ並行して京王電車が走っている。速い者、遅い者で列が次第に長く伸びてゆく。
 忽ち靴ずれを起こし、足の痛い私は、京王電車の駅があるたびに、帰ろうかと考え、そのたびにいやもう少し頑張ろうと思い直して、足を引きずりながら歩いた。甲州街道を並行していた京王電車も、府中から離れてゆく。ここでも帰ろうか、と迷った。帰ってゆく人もかなりいた。小倉君の姿も見えない。しかし、次の日野まで頑張ろうときめた。
 『日野駅』は国鉄中央本線(現在のJR)と甲州街道がX〔エックス〕に交わっている。帰るにはここが最後のチャンスだ。立ち止まって暫く考え、迷った末に先に進んだ。
 しかし、重量物がつらく、とうとうリュックの中の砂袋を捨てた。
 八王子に入ると道は中心街を一直線に貫いている。遠くまで前後を見通しても参加者は1人も見えない。日曜日で買物客は少なかったが、よろよろ敗残兵のように歩いている私の姿をジロジロみていて恥ずかしかった。
 とうとう浅川駅(現在の高尾駅)のゴールにフラフラになってたどりついた。9時間を切っていた。銅バッヂだ。ところが、係員は私のリュックを計量するや「こりゃ軽い、失格!」といって放り出した。この屈辱的な仕打ちに茫然自失となった。
 魂が抜けたように、皆が集まっていた近くの川原に座り込んでしまった。靴を脱ぎ、血だらけの足を冷たい川の流れで冷やした。そこへ小倉君がやってきた。
 彼は私の話を聞くと、自分の銀バッヂを出し「これ、やるよ」という。思いがけない話に驚いたが、小倉君は俺より人間が上だとつくづく感じた(バッヂは後日返した)。

 小倉君は元気で、今でもクラス会で年に3〜4回会い、毎年彼の出品する同人展『葡萄の会』(油絵)にも顔を出している。
 その彼が3年前、四国八十八カ所めぐりに出発、ツアーでなく単独で、1,500キロを50日かけて完歩した。その間風雨にかかわらず1日も休まず歩き続けたのだ。すごい体力と精神力だ。
 この準備として1年前から、土・日には色々の靴を履いて20〜30キロ歩いてテストしながら足慣らしをした。それでも靴ずれができたが、その手当、対処の方法も経験者にきいて研究したという。
 そして、はじめの一週間は20キロ位で切り上げ、その後、次第に距離を伸ばした。はじめから頑張る若者は大抵バテてしまい、途中で挫折するらしい。それと腹いっぱい食べたり、飲んだりしないこと。腹がいっぱいでは歩けないからという。
 彼が四国めぐりをはじめたのは、宗教とか誰かの供養というのでなく、ただ歩くのが目的だったという。その年の3月25日で古希(満70歳)になり、3月末で会社役員も退任したので、それをきっかけにしたという。
 そして現在も毎日8キロを100分で歩いているというから驚きだ。体は小柄だが、健脚は56年経っても健在だ。
 彼は平成2年秋、黄綬褒章を受章した。
 

●東京初空襲に出合う
 強歩大会ではひどい目にあってしまったが、その半月後とんでもない事にぶつかった。昭和17年4月18日米軍機による初の東京空襲をこの目で見る偶然に出合ったのだ。この光景は脳裏に焼き付いていて忘れられない。
 天気がよかったその日、私は昼休みに史料編纂所前の空き地で同僚とキャッチボールをしていた。すると突然建物のうしろ(上野公園方面)で、バン、バン、バンという高射砲の炸裂音が聞こえた。空を見上げると、建物の陰からヌーっと大きな双発の飛行機1機が超低空で現れた。頭の真上をゆっくり通り過ぎたが、灰色の胴体と翼にはっきりアメリカの星のマークがついていた。ノースアメリカンB25だと、特長のある尾翼ですぐわかった。
 私と同僚はポカンと顔を見合わせたが、次の瞬間、4階の屋上まで2段飛びに駆け上がっていた。
 遅まきながら空襲警報のサイレンがやっと鳴り出した。B25は西北の方に飛んでいて早稲田と思われる辺りにパラパラと爆弾らしきものを落としてそのまま視界から消えた。民家からは白い煙が立ち上がった。

 この日、同じ飛行機を作家で評論家の村上兵衛氏が[戸山が原]で見ていたことを最近知った。氏は陸軍予科士官学校の生徒(当時18歳)で、ちょうど昼食の休憩時だった。
「私たちは箸を握ったまま、敵機が爆弾をおとす光景をポカンと見上げていた(中略)低空を縫う敵機は、あっという間に視界から消えた」
(村上兵衛『国破レテ―失われた昭和史』サイマル出版1996年刊)
[戸山が原]は現在のJR山手線〔高田馬場〜新大久保〕のすぐ外側にあった野原で、私たちもここで何度か軍事教練をしたことがある。

 このB25はドゥリットル中佐指揮の空母2隻から発進した16機のうちの1機だった。ほとんど被害はなかったものの、アメリカ国民の志気を鼓舞し、いっぽう防空体制の虚をつかれた日本の指導者のショックは大きく、これが2ヶ月後のミッドウェー島攻略作戦に踏み切る動機になったと言われる。

 実は、その朝6:30太平洋上で日本の監視艇は、本土に接近しつつあったアメリカの索敵機3機と航空母艦2隻を発見し、これを本部に打電した。この報告を受けた防衛司令部は、アメリカの空襲を翌19日早朝と予測した。当時の艦載機の航続能力から判断して、艦載機の帰投可能な範囲まで空母が接近してからであろう、と推測したのである。
 同日、12:00水戸方面の防空監視哨は敵機侵入を報じた。けれども敵機は翌19日早朝と頭から信じていた防衛総司令部は水戸からの通報を友軍機の誤認であろうと問題にしなかった。それから15分後に東京が空襲されたのである。
 まさか空母が航続距離の長い陸上機を飛ばすとは予想しなかったのである。B25の16機は空襲終了後に空母に帰投せずそのまま中国奥地の国民政府軍支配下の飛行場に直行した。日本軍は本土内でB25を1機も撃墜できなかった(山中恒『暮らしの中の太平洋戦争』岩波新書による)

 この防衛指令部の判断の甘さ、勝手読みは、ミッドウェー海戦にも現れ、大敗北の原因になった。
 

●カメラ(写真)に凝る
 戦局が転換期にさしかかっていることなど知らない私は、カメラ(写真)に凝りだしていた。
 きっかけはクラスメイトの増渕昌久君だった(彼は健在で、クラス会で時々会っている)。彼に刺激されて、はじめは小西六(現在のコニカ)の《パーレット》だった。これは単玉レンズで、距離を合わせなくてもピントが合う初心者用の安いカメラだった。しかし、どこにもピントが合うと絵はがきのようになって面白味がない。友達のいいカメラを見ると、パーレットでは物足りなくなってきた。
 そこで父にねだりにねだって、とうとう《セミ・レオタックス》という中級カメラを買ってもらった(セミ版というのは、今ではあまり使われなくなった裏紙のついたブローニー・フイルムを6B×4.5Bに使うもので、フイルム1本で16枚撮れた。尚、6B×6Bをシックス版といい、1本で12枚撮れた。何れも現在の35ミリより幅広だった)。
 150円位したように憶えている。私の月給の10ヶ月分だ。本当は《セミ・パール》(富士フイルム製)が欲しかったのだが、父の知り合いのこのカメラ屋にはなかった。
 天にも昇るうれしさで、夜明けの風景や、王子神社の境内を撮したりした。当時はもうフイルムはなかなか手に入らなかったので、発売日に並んで2本づつ買い、錫〔すず〕箔の茶筒に入れて保存した。
 写真の本を読んで、構図、露出(絞りとシャッター)、焦点深度、フィルターや紗の使い方などを勉強した。そして1枚撮るたびに月日、時刻、天候、光線(順光、逆光、半逆光)、露出、距離を記録し、出来上がりの結果(良否)を書き込んだ。これを1年続けたが、データが頭に入り、非常に役に立った。
 光の強弱は寒暖と関係なく、6月の夏至が一番強く、12月の冬至が一番弱い。当たり前のことだが、とかく暑い日は光が強く、寒い日は光が弱いと思い勝ちである。
 結局いい写真を撮る基本は(構図、被写体を別にして)、^手ブレしないこと(1/25秒でも、しっかり持ってシャッターを押さないとブレる)。_正確にピント(距離)を合わせる。`適正露出の3点である。
 _については目測の訓練をした(目測してから巻き尺で測って誤差を調べた)。
 現在のいわゆるバカチョンカメラでは`の露出を考えなくていいから楽である。反面、露出(絞りとシャッター)で焦点深度が変わる面白さは味わえない。
 つまり、例えて言うなら、窓(レンズ〓絞り)を広く開けて、時間(シャッター)を短くした場合と、窓を狭くして、時間を長くして風(光)を入れた場合とでは、その量が同じでも焦点深度が違い、できあがった写真は違ったものになるのだ(後者の方が焦点は深くなる。また、距離〓ピントが遠くなる程深くなる)。

 戦後間もなく、自分で引き伸ばしををしてみて、撮影そのものより、ずっと面白い(むずかしい)と知った。悪いネガ(露出不足や露出過度の原版)からいかにいい写真を作るかだ(印画紙、現像液、液温、引伸機の露出の選定がむずかしい)。
 

●棒の折山〔ぼうのおれやま〕で迷う
 カメラが原因で、両親に大変な心配をかける事件を起こしてしまった。
 新しいカメラで風景を撮りたい私は、増渕君から奥多摩のハイキングに誘われて飛びついた。八鍬六郎君も同調し、昭和17年7月5日(写真が残っている)3人で行くことにした。ところが私は両親に行き先を言わないで出た(言いずらかったのだろうが、山を簡単に考えていた)。
 当時は小河内ダム(現在の奥多摩湖)が工事中で、青梅電鉄(昭和19年4月1日、国有化されて青梅線となる)は御岳〔みたけ〕が終点だった。ダム建設工事用の電車が氷川(現在の奥多摩駅)まで通っていたが、一般乗客は乗せなかった。
 御岳からバスで川井まで行ったと思う。そこから多摩川の支流、大丹波
〔おおたば〕川を遡る。そのまま行って獅子口小屋から川苔山〔かわのりやま〕(1,364m)へ行く筈だった。ところが途中の奥茶屋で弁当を食べ休んでいる内に気が変わって棒の折山〔ぼうのおれやま〕(969m、棒の峰ともいう)へ向かった。奥茶屋が川苔山と棒の折山の分岐点で、その指導標があったからだが、こっちの方が低く、簡単だと思ったからだろう。
ジグザグ道を登り、尾根へ出て、明るく開けた頂上についた。よく晴れていて展望を楽しんで下りについたが、道がわからなくなってしまった。防火線を道と間違えたのかも知れない。地図も磁石も持っていないのだから無茶な話だ。そして山登りの初心者ばかりだから、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしたが、指導標が見つからない。その内に陽が暮れかけてきて焦ってきた。
 とにかく、また尾根に戻ると、反対側の下の方にキコリらしい人の姿が見えた。丸太をソリに積んでいるところらしい。オーイ!オーイ!と3人で大声で叫ぶと声が届いたらしく待っていてくれている様子だ。やれありがたや、と斜面を大急ぎで下った。
 わけを話し、とにかくソリ(丸太の上)に乗せてもらった。ソリは枕木を等間隔に並べてあるレールのない路線をすべって下ってゆく。勾配のない場所では、ソリから降りて押した。丸太はうしろに長く突き出していてカーブでは尻尾はかなり振り回される。時には谷川の崖の上の空中まで突き出されてヒヤッとした。どこへ行くのか全くわからない。

やっと目的地に着き、その家に案内された。既に陽はとっぷり暮れている。そこで、小さな丸いじゃがいもの煮たのををご馳走になった。空腹の身に実にうまかった。
 人心地ついたものの、さてここから駅までは峠を越さねばならないと言う。道もわからず、すっかり心細くなっていた私たちは、どうか案内して下さいと、じゃがいも代を含めて5円差し出した。
 すると娘さんが快く承知してくれ、提灯をかざし夜道を先に立って案内してくれた。途中の峠らしい所で、沢山の大きな蛍が飛びかっていて実にきれいだったが、ゆっくり眺める余裕はなかった。
 お陰で何とか終電車に間に合った(何という駅だったか全く覚えていないが、今調べてみると御岳より青梅よりの軍畑〔いくさばた〕ではなかったろうか)。

 王子駅に着いた時は、多分12時を過ぎていたろう。改札口に両親が待っていた。両親は心配して駅まで2度も迎えに来たという。とんでもない心配をかけてしまった、という申し訳なさと、ホッとした気持ちが入り交じって黙って頭を下げた。父はひと言も叱らず、安心した様子で時代がかった提灯を下げ、先に立って歩いた。行き違う人はケゲンな顔で私たち3人を見ていた。
 

●ハイキングの思い出
 棒の折山で遭難しかけたりしたが、以後は『東京付近の山の旅』(山と渓谷社)などのガイドブックでよく調べて、奥多摩、丹沢、奥武蔵などに日帰りハイキングをした。戦争中で娯楽が少なかったせいもあるが、写真を撮る愉しみがあったからだ。
 このためのリュックサックを東大赤門前のスポーツ屋で買った。友達についてきてもらったが、これならアルプス登山にも使えるとすすめられて厚地で大型のキスリング型にした。これが何と19円もした。21円の値札がついていたが、ねばって負けてもらった。それでも私の月給(15円)より高かった。
 皮肉にも、この大型リュックは、アルプスには行かず、専ら食料の買い出し用に重宝にこき使われた。

 当時のハイキングで思い出す明暗2題。
〔暗〕奥多摩の海沢〔うなざわ〕で沢登りをした時のことだ。クラスメイトの小倉、池田君らと4、5人で行った。途中の大きな岩を越えるとき、足を滑らせて沢へ転落してしまった。
 3〜4メートルの高さがあったが、幸い岩の下は深くえぐられていて水中深く沈んでゆく。ジタバタせず、水中で目を開け、きれいだな、と思う位の余裕があった(水泳ができるお陰だ)。
 怪我はなく、背負っていたリュックが浮き袋になった。沢から上がってわさび畑のわきで衣服を乾かしたが、リュックの中は濡れていなかった。
〔明〕クラスメイトで、製図を手伝ってくれた八鍬六郎君と三ッ峠山(1,786m)へ夜行日帰りで登った。昭和17年4月26日だった。好天に恵まれ残雪の富士山と南アルプスの眺望が素晴らしかった。この時の写真があり、よく見ると私はゲートル巻きに何とワラジを履いている(八鍬君は運動靴)。
 ワラジは沢登りの時には使うが、尾根歩きにも履いていたのは、強歩大会で靴にこりたせいだったか(勿論、往復の電車の中では靴だったろう)
 それはともかく、復路は往路とは反対側の河口湖畔の船津という村へ降りた。丁度お祭りの最中で賑わっていた。1人の村人から「小石川工業生ですね」と学帽を見て声をかけられた。(小石川工業の学帽は白線1本がついている)。家へ案内されておはぎなどをたらふく御馳走になった。家人が本校の卒業生だったのかも知れないが、ききそびれた。戦争中とはいえ、まだのんびりしたものがあった。

(平成10年11月16日)


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